天動説と地動説、それから『天体の回転について』
ちなみにシモン・マリウスはガリレオより早く4つの衛星を発見したと主張したドイツの天文学者です。しかし残念ながら、記録を見る限りではガリレオのほうが発見は先だったようです。
ガリレオ自身はこの4つの衛星を、トスカーナ大公とメディチ家の4兄弟に敬意を表し、「メディチ家の星々」と命名していました(当初はトスカーナ大公コジモ2世に敬意を表する「コジモの星々」だったが大公の提案で改名した)。

これを見ると、ガリレオがお世話になっていたトスカーナでは、大公に衛星の名を捧げても別に「地動説は異端ではないか!」と攻撃されているわけではありませんね。比較的厳しかったイタリアでもこれでした。
実は当時、天動説は神の教え、地動説は異端で、地動説を信じる者は異端として処刑されるという厳しい現実はありませんでした。ガリレオの裁判で、現代には誤解が広まっているようです。
『天体の回転について』を著したニコラウス・コペルニクスはポーランド出身で、カトリックの司祭でもありました。これは当時主流だった天動説を覆す地動説を唱えた書物でした。

後見人の叔父により司祭になることを望まれていたコペルニクスは大学へ進学。ここで天動説に懐疑的だった教授によって天文学に触れたのです。
その後コペルニクスは副助祭として勤勉に働く一方、天文観測と研究を続けていました。地動説については周囲に勧められながらもなかなか出版に踏み切らなかったのですが、その30年ほど前には同人誌『コメンタリオルス』で地動説を公にしているので、特に隠していたわけではありませんでした。
ガリレオはトスカーナ大公付きの数学者として名誉ある地位にいました。ラテン語ではなくイタリア語で執筆した『天文対話』『新科学対話』などでガリレオが「現代の知」と呼んだ自然科学へ繋がる手法を生み出したのです。
しかし、名誉ある地位にいたがためか権力闘争に巻き込まれ、敵を作りました。そのため異端審問にかけられることになりましたが、地動説は口実でしかなかったという説と、敬虔なカトリック教徒だったガリレオですが、科学は宗教と切り分けるべき、という主張が異端とされたという説があります。

「それでも地球は回っている」という有名な言葉は、実際には2度目の異端審問裁判で有罪となった時に読み上げさせられた異端誓絶文の最後に「そう言った」と弟子たちが付け加えた「後付け」とされています。
しかし有罪となったのは事実で、その後は亡くなるまで軟禁生活を余儀なくされ、亡くなっても異端者として死後も名誉は回復されず、カトリック教徒として葬ることも許されませんでした。
ガリレオにカトリックの正式な埋葬許可が下りたのは1737年。亡くなった1642年から95年が経過していました。
異端審問裁判で『天文対話』は禁書になりましたが、『新科学対話』は、ガリレオの原稿が何者かによって持ち出され、オランダで勝手に印刷され(たという設定で)、再び発行されました。

オランダはプロテスタント教国でしたし、そもそもイタリア以外では、ローマ教会は強い力を持っていなかったので、他国へは「禁書目録」を送るに留まっていました。
ローマ教会でも、もう「現代の知」を止めることはできなかったのです。
ガリレオ衛星とラプラス共鳴の秘密には、ガリレオが拓いた「現代の知」が深く関わっているのでした。
この異端審問とガリレオが有罪となった裁判の見直しが始まったのは1965年のことでした。ローマ教皇パウロ6世の言及から始まったもので、ガリレオの死から323後のことです。
そして1992年、当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は裁判でガリレオを有罪としたのは誤りであったことを認め、正式に謝罪しました。
ガリレオの死から350年が経過していました。ローマ教会が「地動説は異端ではない」と認めた瞬間でもありました。
