ゲーム理論で読み解く「いじめ」のメリットデメリット

いじめのような集団内での排除行動は、ゲーム理論の視点からも説明することができます。
集団生活では各個体が自分の利益を最大化しようと行動した結果、時に誰かを犠牲にするような均衡状態が生まれてしまうことがあります。
いじめにおいては、「いじめる側」と「いじめられる側」、そして傍観者という立場がありますが、それぞれの利害を考えてみましょう。
まず、いじめる側のメリットは前述の通り明白です。
相手を屈服させ、自分が相対的に有利な資源配分や地位を得られます。
では傍観者にとってはどうでしょうか。
本来であれば、傍観者も弱い者いじめを止めたいという道徳心や他人への共感を持ち合わせているかもしれません。
しかしゲーム理論的に考えると、傍観者が正義感から介入すると自分が次の標的にされるリスクがあります。
一方、何もせず静観したり強者側に同調したりすれば、自分に矛先が向く危険を避けられるだけでなく、いじめる側に取り入っておこぼれ的な利益(優位者の仲間としての安全や優越感)を得られる可能性もあります。
つまり、傍観者にとって「いじめに加担しない正義の行動」はコストが高く、「見て見ぬふりをする」方が安全策として合理的になりがちなのです。
このようにして多くの人が静観を選ぶと、結局いじめはエスカレートしやすくなり、いじめという状況が集団内で安定化(ナッシュ均衡)してしまうわけです。
実験経済学の研究もこの構図を裏付けています。
あるゲーム理論実験では、力関係に非対称性を持たせた場合(つまり一方が強者、他方が弱者の状況)、強者は弱者を搾取する戦略(脅迫やゆすり)をとる傾向が確認されました。
そして驚くべきことに、弱い立場の参加者は不公平な要求に従った方が自分の利得が高くなる場合が多かったのです。
つまり、「嫌ならやめてもいいんだぞ?」と暗に脅されながら不利な取引を飲まされた方が、下手に抵抗してゼロになってしまうよりマシだという状況が生じるのです。
これは職場の権力関係にも通じる話で、上司が部下に「嫌なら辞めても代わりはいる」とプレッシャーをかけ、部下は泣く泣く従わざるを得ない、といったケースに似ています。
ゲーム理論上、力の差が大きいとき弱者は従った方が得をするため、強者のいじめ・ゆすり行為が横行しやすくなるというわけです。
さらに集団全体の視点で見ても、時に「スケープゴート(生贄の山羊)」効果によっていじめが強化されることがあります。
哲学者ルネ・ジラールの仮説によれば、人類の進化史において集団内の対立を収束させるために、無意識のうちに一人の責めやすい個体に非難を集中させる「スケープゴート機構」が生じた可能性があります。
集団が誰か一人を生贄にして団結することで、内部の不和を解消し社会的安定を取り戻すという現象です。
これは宗教的な儀式や文化の起源とも絡む大胆な仮説ですが、日常のいじめに置き換えてみても、一つの集団が「異質なあの子」を標的にいじめることで他のメンバー間の連帯感が高まる、といった状況は想像に難くありません。
いじめられる側にとっては理不尽極まりないですが、いじめる側・傍観者側には集団の結束感という報酬が発生しうるのです。
このように、集団全体から見てもいじめは必ずしも非合理なだけの行動ではなく、一部の状況下では集団維持の機能すら果たしてしまうという、厄介な側面があります。
ちょっとだけ数学的にくわしく解説
いじめは集団内で繰り返される多人数ゲームとして捉えられる。加害者が弱者を標的に攻撃すると、被害者は反撃コストを恐れて服従し、傍観者も次の標的化を避けるため静観する。この構図では「介入>損失」という条件が満たされない限り、いじめがナッシュ均衡となり固定化される。優位者は資源・評判を獲得し、傍観者も安全と同調利益を得るため均衡はさらに安定する。均衡を崩すには、第三者罰や協調的介入により“介入の期待利得”をプラスに転じさせ、標的への移行コストを加害者に負わせる制度設計が必要だ。逆に高い血縁度や共同利益が大きい集団では、いじめが集団全体のコストとなるため抑制メカニズム(ポリシング)が進化しやすい。