なぜブラックホールを縮小コピーするのか

宇宙に存在するブラックホールは、重力が非常に強いため光さえも逃れられない領域を持ちます。
この境界が「事象の地平面(event horizon)」です。
一度この地平面を越えると、内部からは何も外に出られないため「戻れない境界(ポイント・オブ・ノーリターン)」とも呼ばれます。
1970年代に物理学者スティーブン・ホーキングは、この地平面の量子効果としてブラックホールがわずかな放射(ホーキング放射)を放つと理論予言しました。
ホーキング放射とは何か?
ホーキング放射は、ブラックホールのすぐ外側で起こる量子の“いたずら”の結果だと考えるとイメージしやすいです。
宇宙空間は真空と呼ばれていても完全な空っぽではなく、ほんの一瞬だけ現れてはすぐに打ち消し合う粒子と反粒子のペアが、泡のように生まれては消える現象――量子ゆらぎ――が絶えず起きています。
ふつうはペアがそろって消えるため外からは何も見えませんが、ブラックホールの境界である「事象の地平面」は一種の崖のように空間を大きくゆがめているため、ペアの片方が崖の内側へ吸い込まれ、もう片方が外側へ取り残されることがあります。崖の内側へ落ちた粒子はブラックホールにエネルギーを“借りた”まま消えるため、残された相方はその借りを返す形で本物の粒子として外へ飛び出し、遠くの観測者には「ブラックホールから光や粒子が放たれた」ように見えるのです。
外へ出た粒子はブラックホールの質量をほんのわずかに奪っていくので、長い時間をかけるとブラックホール自身が少しずつ軽くなり、やがて蒸発してしまう――これがホーキング放射の核心です。言い換えれば、ブラックホールは光さえ逃げられない闇の穴である一方、量子の揺らぎを通じてごく弱い“体温”を持ち、その熱でゆっくりと身を削り続ける存在だと捉えられるのです。
あえて擬人化すれば、ホーキング放射は真空から誕生した双子がブラックホールの縁で引き裂かれ、生き残った片割れが復讐のためブラックホールからエネルギーを盗んで宇宙へ持ち逃げする現象なのです。
そしてブラックホールが存在し続ける限りこの双子の引き裂きとエネルギーの持ち去りは続くため、どんな巨大なブラックホールもやがては消え去ってしまう運命にあるわけです。
しかし、このホーキング放射は極めて微弱で宇宙背景のノイズに埋もれてしまうため、実際の天体ブラックホールで直接観測することは極めて困難です。
そこで科学者たちは、ブラックホールと似た状況を実験室で再現し、その現象を“模型”で確かめようと試みています。
具体的には、水槽で排水口に水が流れ込む様子が水面波にとっての地平面のアナログになるように、「音の速さ」を境に流体の流れを亜音速から超音速へと遷移させると、音波に対して事象の地平面に相当する境界(音響の地平面)が現れることが知られています。
この音響の地平面では、境界を挟んで対になった波(粒子)が生まれると予測され、それがホーキング放射の類似となります。
従来の実験では、この「流体中の地平面」を自在に作り出し、その周辺で起こる現象を詳細に観測することは大きな挑戦でした。
そこで研究者が考えたのが、重力そのものではなく 「光の流れ」を曲げて、時空が曲がったのとそっくりの状況をミニチュアで作る 方法です。
「私たちは、こうしたアナログ実験によって人間の手では直接触れることのできない物理現象を探究したいのです」と、本研究を主導したフランス・ソルボンヌ大学カストラー・ブロッセル研究所のマキシム・ジャケ研究員は語っています。
ブラックホールそのものを操作することはできませんが、実験室内のモデルであれば時空の曲がり具合(時空の「曲率」)を人為的に調節し、その上で起こる現象を詳細に測定できます。
このような「アナログ重力実験」によって、ブラックホール物理や量子重力理論の予言を検証することが本研究の目的です。