“音で見る”ではなく“音で触る”に近い感覚
さて、実際に脳の神経のつながりをたどってみたところ、面白い発見がありました。
イルカの脳では、音を処理する左の下丘と、運動を司る右の小脳のあいだに、非常に強い神経の結びつきが見られたのです。これに対し、ミンククジラでは右下丘から左小脳への接続の方がやや強くなっていました。

この違いは何を意味するのでしょうか?
イルカは、音によって周囲の空間を素早く把握しながら、獲物を追いかけたり障害物を避けたりするために、脳内で音と運動が一体となった働きをしている可能性があります。
それはまるで、「音で感じたものに、直接触れて反応する」ような感覚に近いと考えられます。
例えば、イルカがクリック音を出して前方にある小魚の位置を探ると、その反響音のパターンから「ここにいる!」と即座に感知します。
この情報は、脳内を高速で処理され、小脳や体の動きを制御する領域に伝わり、舌を出したり、口を素早く閉じたり、体をひねったりといった行動につながります。
それは見てそれを判断して行動につなげるというよりも、触れて反射的に動く反応に近いのです。
人間にたとえれば、暗闇の中で手を前に出し、何かに触れた瞬間に思わず引っ込めたり掴んだりするような感覚に似ているかもしれません。

実際に、今回の研究では、イルカの脳でエコーロケーションの反響音を処理している経路の一部が、ヒトの脳で触覚処理に関わる領域(SII:二次体性感覚野)と同じような場所を通っていることが確認されました。
このことから、イルカのエコーロケーションは、「目で見る」ような処理だけでなく、「皮膚で感じる」ような触覚的処理も含まれている可能性があると考えられたのです。
つまり、イルカにとって反響音は、視覚的に「見る」情報というより、物理的に「触れる」ような実感をともなう感覚として、空間や対象物を捉えているのかもしれません。
もちろんその感覚は、私たち人間には想像しにくい、まったく新しい種類の知覚かもしれません。しかし、こうした未知の感覚に迫る報告は興味深いものがあります。
私たちは“音で触れる”感覚を理解できるのか?
ここまで見てきたように、イルカの脳では、音の反響がまるで触覚のように処理されている可能性があることが示唆されています。 しかし、読者の中にはこの報告でイルカの感覚を本当に説明できているのか? と疑問を投げかける人もいるでしょう。
実際同じような問題は、すでに哲学者トマス・ネーゲル(Thomas Nagel)が、1974年に発表した論文の中で論じています。
「コウモリであるとはどういうことか?」というタイトルのこの論文で、ネーゲルはたとえ私たちがコウモリの脳や行動を科学的に理解したとしても、「コウモリにとって世界がどう“感じられているか”」という主観的な体験は、私たち人間には本質的に理解できないと結論づけました。
ネーゲルは、主観的な経験、つまりクオリア(qualia)は、どれほど精密な脳スキャンや客観的データを通しても捉えきれないと指摘したのです。
イルカのエコーロケーションについても同様です。 たとえ脳内で触覚に似た処理が行われていることが分かっても、それが「どんなふうに感じられているのか」までは、外部からは知り得ないかもしれません。
このような哲学的な限界を前にしながらも、今回の研究は、私たちが持たない感覚の世界に一歩踏み込み、そこに科学的な輪郭を与えようとする試みといえるでしょう。
そして同時に、それは動物たちの知覚や意識に対する、新たな想像力を促してくれます。
向こうも人間の感覚を不思議がっていたりしそう。