古代ウイルスが私たちの健康を左右する

今回の研究結果から、私たちの体の中に眠っていた「ジャンクDNA」と呼ばれる不思議な領域に対する見方が大きく変わりました。
これまで「ジャンクDNA」という名前からも分かるように、このDNA領域は「役に立たない無意味な遺伝子のガラクタ」として軽視されてきました。
しかし、実際はこの領域に、驚くほど重要な役割が隠されていたのです。
しかもその役割は、人間の進化や赤ちゃんが母親の体内で育つ過程、さらには病気にさえ影響を与えるほど広範囲なものでした。
元をたどれば、これは数千万年も昔に私たちの祖先がウイルスに感染したことに端を発しています。
本来、ウイルスは外敵であり感染した生物に悪影響を与える存在です。しかし、進化の長い歴史の中で、このウイルスのDNA断片は私たちの祖先のゲノムの中に入り込み、そのまま次の世代へと受け継がれてきました。
初めは単なる「DNAの中のノイズ」のような存在だったかもしれませんが、徐々に宿主である私たちのゲノムに取り込まれ、いつの間にかゲノム全体を調節する大切なスイッチ役として働くようになっていたのです。
こう考えると、まるでかつての侵入者であるウイルスが、今やゲノムの重要な「管理者」として私たちの生命を支えているような不思議さを感じるかもしれません。
今回の研究がもたらした最大の意義は、私たちが長年見過ごしてきた「ジャンクDNA」や「ゲノムの暗黒物質」と呼ばれる領域の中にこそ、ゲノムの機能や進化の謎を解く鍵が潜んでいることを明確に示した点にあります。
例えば最近の研究では、これまで無視されていたジャンクDNAの配列を詳しく調べることで、がんの早期発見や珍しい病気の診断に役立つ新しい方法が開発されています。
ある研究では、血液中のDNAに含まれるジャンクDNA配列の活動パターンを人工知能で解析し、高精度でがんを検出する方法が報告されています。
また別の研究では、これまで原因が全く分からなかった難病の患者のゲノムを、タンパク質を作る遺伝子以外の領域まで徹底的に調べ直した結果、まさにジャンクDNAと呼ばれた部分にあった小さな変異が病気の原因だったことを発見し、患者の治療を大きく前進させる成果を上げています。
これらの例からも、ジャンクDNAが持つ可能性がどれほど大きいかがわかります。
ヒトゲノムが最初に解読された約25年前、人類は「ゲノムの全てが明らかになった」と感じたかもしれません。
しかし実際には、私たちはゲノムの設計図のほんの一部しか理解できていなかったのです。研究チームの中心人物の一人である京都大学の井上博士も、「私たちのゲノム配列は既に全て読み取られていますが、その大部分の機能は未だに不明なままです。
特にトランスポゾンやウイルス由来の配列は、ゲノムの進化や私たちの生命活動に重要な役割を果たしている可能性があり、研究が進めば進むほど、その重要性が明らかになっていくでしょう」と話しています。
実際、今回の研究で中心的役割を担ったMER11というウイルス由来配列を詳しく解析したところ、人間やチンパンジーなど大型類人猿の系統に特有の遺伝子調節スイッチが存在することが明らかになりました。
これは「私たちが人間らしくあるために必要なDNAの断片」が、かつてのウイルスの痕跡に由来している可能性を強く示しています。
この点についてマギル大学のギヨーム・ブルク教授は、「もし私たちのゲノムの中にある、人間や霊長類に特有な部分とウイルスに由来する部分をはっきりと区別できれば、私たちが『なぜ人間なのか』という根本的な問いに対する答えに近づくことができるでしょう。さらにDNAが健康や病気にどう影響するのかも、これまで以上に詳しく理解できるようになるでしょう」と強調しています。
今回の研究成果は、人類がゲノムという巨大な設計図を理解する新しい時代の幕開けとなるかもしれません。
これまで私たちが単なる「余白」と考えていた領域に新たな意味を見出すことで、「生命とは何か」、「人間とは何か」という私たちが抱く根源的な疑問に迫る、壮大な旅がはじまるのかもしれません。
使えそうなものなら何でも使ってしまう生き物さん。
生命の世界には著作権なぞないのだ。