あなたの脳は『昔の身体』を認識すると記憶を引きずり出してくれる

この興味深い仮説を確かめるために、研究チームは特殊な実験を行いました。
実験には、成人の男女50人が自宅からオンラインで参加しました。
自宅でできる実験というのは近年増えていますが、この実験では参加者のウェブカメラが重要な役割を果たします。
参加者はまずパソコンの前に座り、自分の顔をウェブカメラに映します。
するとソフトウェアによって、画面上の自分の顔がリアルタイムで「若返った」ように幼児化されます。
この様子は、まるで鏡の中に昔の子供だった頃の自分が突然現れたかのような、不思議な錯覚を引き起こします。
「錯覚」と聞くと奇妙な響きがありますが、実際の仕組みはシンプルです。
具体的には、参加者が頭を左右にゆっくり動かすと、画面の中の幼くなった顔もまったく同じ動きを同じタイミングで行います。
鏡を覗き込んで自分の顔を動かすとき、鏡の中の自分もぴったり同じ動きをするのは当然ですよね。
これと同じ仕組みをデジタル技術で再現することで、脳は「あ、この子供の顔は自分自身だ」と感じる「錯覚」を起こすわけです。
もう一方の「対照グループ」と呼ばれる参加者たちは、自分の顔を幼く加工せず、そのまま通常通りウェブカメラで映された自分の顔を見ていました。
こちらのグループでは「自分の普段の顔」を鏡で見ているのと同じ状況を作ったわけですね。
さて、この錯覚によって「子供になった自分を再体験」した参加者たちは、その直後に特別なインタビューを受けました。
これは「自伝的記憶インタビュー」というもので、参加者が自分自身の昔の記憶を詳しく語るためのものです。
インタビューでは特に、子供時代(幼少期)に経験した出来事について、どれだけ具体的に語れるかが調べられました。
その結果、「子供の顔を体験したグループ」は、「普段の顔を見ていたグループ」に比べて、幼少期のエピソード記憶(過去の出来事をリアルに思い出す力)が明らかに豊富になりました。
つまり、子供時代の姿を目の前にすることで、本当に幼少期の記憶をたくさん思い出せるようになった、という結果が出たわけです。
具体的に言うと、普段であれば「あぁ、幼稚園の頃は運動会が楽しかったなあ」くらいの漠然とした思い出が、この実験を体験した直後には「運動会のとき、日差しが暑くて土のグラウンドに転んでしまい、そのときの土のざらざらした感触まで鮮明に思い出せた」といった詳細な形で語れるようになりました。
研究チームはこの記憶の細かさを評価するために、自由に思い出して語る力(自由想起:FR)と、質問に答えて具体的に思い出す力(特定質問:SP)の両方を総合して「合成スコア」という数値で評価しています。
その結果、「子供の自分」を見たグループのほうが合計スコアの単純比較で約17~20%も高くなっていました。
興味深いのは、この効果が「エピソード記憶」(過去の体験を鮮やかに再現する力)にだけ現れ、「セマンティック記憶」(住所や学校名などの具体的な事実を記憶する能力)には全く変化がなかったことです。
つまり、今回の「子供の自分に戻る」という操作は、特に過去の体験を追体験するような「エピソード記憶」にだけ特異的に作用したのですね。
では、なぜこんな面白い現象が起きたのでしょうか?
研究者たちは、その答えを「私たちの脳が記憶を作る際に、その時の『自分の体の感覚』まで一緒に保存している可能性が高い」からだと考えています。
記憶は単に頭の中だけに保存されるのではなく、「その出来事を体験した体の感覚」も一緒に記録されている、というわけです。
つまり、幼い頃の体験をした時の「自分の体」にもう一度出会うことが、まさに記憶を引き出す手がかりとなった可能性があります。
私たちの脳は、本当に柔軟で不思議な器官です。
例えば、人間の脳は自分の本当の手ではなく、ゴムでできた作り物の手を見て触れられるだけで、「この手が自分の手だ」と錯覚することが知られています。
これは有名な「ラバーハンド錯覚」と呼ばれるもので、脳が簡単に「体の取り違え」をしてしまうことを示しています。
同じように、今回の実験でも「子供の自分」の姿を見ることで、脳が簡単に「これは自分自身だ」と錯覚し、その結果として普段アクセスできなかった昔の記憶が急に引き出されたと考えられるのです。
果たして、この驚くべき「身体錯覚」が記憶の研究にどんな新たな道を開くことになるのでしょうか?