メソポタミアの文字は、氷河期の“長い前日談”の続きなのかもしれない

遺物に刻まれたものは文字なのか?
研究者たちは、判断にあたって文字の定義を確認しました。
その定義では、文字とは「ある記号列から、その社会で話されている言葉を誰が読んでも同じ意味に戻せること」とされました。
たとえば
「加湿器には水を入れないと加湿ができません」
という記号(文字)列があったとします。
同じ日本人ならばこれをおおむね同じ意味に理解します。
ですが、この厳密な意味での書き言葉という定義に照らすと、遺物の記号列はそこには当てはまりませんでした。
列の中で同じ記号が何度も連なっていたり、記号の種類の数に対して並びのパターンが単純すぎたりして、現代の文章のような文法的な骨格を持っているとは考えにくいからです。
そのため著者たちは、厳密な意味での「話し言葉をそのまま表す文字」ではないと述べています。
しかしだからといって、「単なる飾りだった」と切り捨ててよいかというと、話はそこで終わりません。
著者たちは、もう少し広い意味での「書き記すこと」を改めて定義します。
それは「人と人が意味を共有するために使う、慣習化された可視のマーク」というレベルの定義です。
たとえば自分の元気度を石のツルツル具合と連動させるというルールを作っておけば、石を人づてに相手に送ることで、文字がなくても自分がどれくらい元気かを遠くの相手に伝えることができます。
さらに今回の研究対象になった遺物には他にもパターンの一貫性がみられました。
同じ素材の象牙であっても、人やライオンには点を、馬やマンモスや道具には十字を――というように、“誰が見てもわかるルール”にしたがって彫られているからです。
そしてそのルールは、一時的な流行ではなく、1万年スケールで守られているのです。
著者たちは、このような長期にわたる一貫性と、モノごとの使い分けこそが、「人と人のあいだで意味を共有するための、慣習的な記号システム」が存在した証拠だとみなします。
研究者のクリスチャン・ベンツ氏は、「先入観では4万年前の記号は原楔形文字とはかけ離れているはずだと思っていましたが、調べるほど似ている点が見えてきて自分たちでも驚きました」と語っています。
エヴァ・ドゥトキエヴィチ氏は、「象牙フィギュアには道具とはちがう情報の詰め方が見られ、道具よりも情報密度が高い」とコメントしています。
つまり「これは文字か/文字ではないか」という二択ではなく、「狭義の文字には届かないが、情報を外に書き出す高度な記号システムとしては、すでに原楔形文字級のポテンシャルを持っていた」という中間部分を指し示す意見です。
さらに、研究者たちは将来的には大規模言語モデル(AI)を使って、これらの記号列の「意味」をある程度推定できるかもしれない、というアイデアも触れています。
大規模言語モデルは、たくさんの文章を読み込んで「次に来やすい単語や文字」を学ぶ仕組みなので、4万年前の記号列にも同じように“並び方のクセ”を学習させることは理屈の上では可能です。
そしてこの見解が事実なら、「文字の起源」を根本的に考え直す必要があるでしょう。
これまでは都市や国家などの文明の誕生によって「文字が発明された」というスタンスで語られてきました。
しかし今回の研究成果は、最古の文字が文明の地で出現する前に近い情報密度を持つシステムが氷河期の狩猟採集社会で少なくとも約1万年のあいだ用いられていた可能性を示唆します。
これは最古の文字がポンと発明されたというより、書き言葉ではない原文字(プロト文字)から文字への連続的な段階があった可能性も示唆します。
言い換えれば文明のしるしとされてきた情報処理のノウハウは、都市も国家もない時代から、すでに“実装済み”だったとも言えるでしょう。
この成果を足がかりに、世界各地の旧石器遺物に刻まれた記号列を同じ物差しで測っていけば、「人類はどこで、何度、どんなパターンで“ほぼ文字”のようなものを発明してきたのか」という地球規模の地図が、少しずつ描けてくるかもしれません。
もしかしたら未来の世界では、「文字の歴史はメソポタミアから始まる」のではなく、「氷河期の人びとから始まる」と教科書に書かれているのかもしれません。



























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