不確定性原理の登場
解釈の仕方はどうあれ、世間の流れは完全にシュレーディンガーの波動力学に向いていましたが、そんな中、ハイゼンベルクはなんとか自分の行列力学を復権させようと頑張っていました。
あるときハイゼンベルクは、ベルリン大学でアインシュタイン、ラウエ、プランクといったそうそうたる顔ぶれの前で、行列力学の講演を行う機会を得ます。
この時点で若干25歳だったハイゼンベルクは、ひどく緊張したことでしょう。
アインシュタインは、「君の仮定はおそらく正しいだろう」としながらも、視覚的な電子の軌道を認めないハイゼンベルクの考え方に、「なんでそんなおかしなことを言い出すのか?」 と尋ねました。
これに対してハイゼンベルクは、我々は直接観測可能な量だけに基づいて考えるべきだという主張をします。
しかし、アインシュタインはハイゼンベルクの「観測可能な量だけで理論を作る」という考えを否定します。なぜなら、アインシュタインに言わせれば「何が観測可能かを決めているのは理論のほう」だからです。
何が観測可能かという問題は、ハイゼンベルクの理論の仮説に過ぎず、その考えに則って君は結果を見ているだけだ、とアインシュタインは言うのです。
これはハイゼンベルクにとって意表を突く指摘でしたが、よく考えてみるべき問題だと感じました。
ハイゼンベルクにとっては、もう1つ難しい問題がありました。それがスコットランド人の物理学者ウィルソンが発見した霧箱の問題です。
霧箱というのは、過飽和状態の蒸気を満たした箱のことです。ここに放射線を放つと空気分子が電離して、そのイオンを核に蒸気が凝結し、荷電粒子の軌跡が飛行機雲のように見えるのです。
波動力学では電子や光子は波であり空間をどんどん広がるので直線の経路など持ちません。一方行列力学の考え方でも、電子などに移動の軌跡など存在しないはずでした。
ハイゼンベルクの考えでは、電子は量子飛躍という突然ぴょんと別の場所にジャンプして移動するおかしな挙動をするものでした。シュレーディンガーはこの考えを嫌って波としての表現を主張しましたが、ハイゼンベルクにとって量子飛躍は絶対に外すことのできない量子力学の重要な性質だったのです。
では霧箱に見える軌跡は一体なんなのでしょう? これは本当に電子の軌跡を表しているものなのでしょうか?
ハイゼンベルクは、考え抜いた末に、この飛行機雲のような軌跡が電子の正確な位置を表すものではなく、だいたいの位置を示すものでしかないということに気づきます。
これはぼんやりした点の並びに過ぎず、見ているものは電子などより遥かに大きい水滴の列だ。
ハイゼンベルクは行列力学を成り立たせているのが、電子に関する情報の不確かさなのだということに、このとき気づきます。
では、何が観測可能で、何が観測できないのでしょう? それはどうやって決まっているのでしょう?
ハイゼンベルクはこのとき、アインシュタインの何が観測可能か決めるのは理論だという指摘を思い出しました。
彼はここから、運動量と位置の情報が同時には得ることができず、両者には不確定性がつきまとうという、量子力学でも特に重要な理論、ハイゼンベルクの不確定性原理を発見するのです。
もし電子に軌跡があるのだとすれば、それはある時間ごとの電子の位置qを連続して観測していくことに他なりません。
しかし、電子のように小さな粒子を観測するために、波長の短いガンマ線などをぶつけてその反射で観測すると、電子はあらぬ方向へ弾き飛ばされ、もともと持っていた運動量を失ってしまいます。
これでは瞬間的な位置を知ることはできますが、その後の経路はめちゃくちゃになって意味を持たなくなるでしょう。
行列力学では、粒子の運動量pと位置qの順番を入れ替えて掛け算すると、答えが変わってしまうという非可換性を持っていました。
それは運動量を測定してから位置を測定した場合と、位置を測定してから運動量を測定した場合では観測量が変わってしまうことを意味しており、2つの差は観測量のあいまいさを起源としていたのです。
後にハイゼンベルクは、この理論の名前は「不確定性」と呼ぶよりは、「不可知性」と呼んだほうがよかったかもしれないと言っています。
つまりは、私たちは電子について、運動量と位置を同時に知ることは禁じられていたのです。だから、電子は空間の中で繋がった経路という古典物理学的な概念は持たなかったのです。