ほぼ漂流同然で唐に向かう一行、マンツーマンで学問を身に着ける留学生

遣唐使は日本が唐の先進的な政治制度や文化、並びに仏教などについて学ぶために、使節を派遣した制度です。
遣唐使が派遣されるペースは時代によって異なりますが、大体10年に一度のペースで派遣されていました。
遣唐使に選ばれる条件として頭のよさや顔の良さがあり、才貌両全の貴族や僧侶が遣唐使船に乗り込むことになりました。
遣唐使は当初は朝鮮半島の海岸沿いを船で進んで唐を目指すルートを取っていましたが、朝鮮半島の情勢が悪化したことにより東シナ海を直接横断するルートを取るようになったのです。

しかし当時の航海技術が未熟であったことから、唐の特定の港に入港することはまずできませんでした。
そのため遣唐使の一行は唐のどこかの港に流れ着いた後、まずはその港がある地方の役人のもとに赴いて、正式な使者であることを確認してもらう必要があったのです。
確認が済んだ後は長安に赴き、皇帝に挨拶しました。その後使節のリーダーらは帰路に着きましたが、同行した留学生(るがくしょう)はそのまま唐に残り、勉学に励んだのです。
それでは留学生はどのような場所で勉強していたのでしょうか?
当時の唐には太学(たいがく)をはじめとする高等教育機関があり、そこで様々な学問が教えられていました。
しかしこれらの教育機関に入学する為には高い語学力や学力が要求されており、また唐の学校の入学資格が14歳から19歳までであったことから、太学に入学して学ぶことは一般的ではなかったとされています。
なお太学に入学して学んだ留学生としては阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)がおり、彼はのちに唐王朝に仕えました。

留学生の留学先として一般的であったのが唐の学者の下に個人的に師事するというものであり、仲麻呂の留学同期の吉備真備(きびのまきび)は学者の門人として天文学や兵学などを学びました。
しかし個人的な師事や独学で学問を身に着けることにはやはり限界があり、留学生の多くは苦学したと言われています。

なお僧侶の留学生の場合は唐の寺院に入って仏教について学んだり、さらなる修行を行ったりしていました。
またいうまでもなく唐では中国語が使われており、当時は翻訳機などという便利なものがなかったこともあって、何はともあれ留学生たちはまずは中国語を習得することが必要でした。
しかし中には中国語の習得に苦戦する人物もおり、例えば最澄(さいちょう)は弟子に通訳を務めてもらうことで何とか留学を続けていました。
また最澄と共に唐に留学した橘逸勢(たちばなのはやなり)は中国語の習得に悪戦苦闘しており、最終的に語学が出来なくても何とかなる琴や書道を中心に学びました。