ブラックホールの毛を巡るパラドックス

ブラックホールという名前を聞くと、多くの人はすべてを飲み込む真っ黒な穴を想像するでしょう。
この奇妙な天体について、約100年前にアインシュタインが考えた「一般相対性理論」という物理学の基本的な理論では、非常に不思議な予言がなされています。
それは、「ブラックホールは、たった3つの要素だけで完全に説明できる」とする考えです。
この3つとは、①質量(どれくらい重いか)、②自転(どれくらい速く回転しているか)、③電荷(電気的な性質)のことです。
この3つの値さえ決まれば、ブラックホールの見た目や特徴は全て決まってしまう、というのが「ブラックホール無毛定理(むもうていり)」と呼ばれる理論です。
ここで言う「毛」とは、天体の細かな特徴を髪の毛にたとえた表現です。
私たちが知っている普通の星や惑星は、色々な大きさや形、磁場や物質の成分といった数多くの特徴(つまり「フサフサの毛」)を持っています。
しかし、ブラックホールは極端に単純で、まるで「ツルツルの頭」のように特徴がほとんど無いというわけです。
この無毛定理は理論としてはとても美しいのですが、困った問題も抱えています。
ブラックホールは宇宙空間で星などを次々と飲み込みますが、この理論通りなら飲み込まれた星がどんな星だったのか、その詳しい情報(例えば星を構成していた元素や元の状態)がブラックホールの外から見えなくなってしまいます。
情報が完全に消えてしまうか、ブラックホールの内部に封じ込められてしまうかのどちらかになってしまいますが、実際のところ、それらの情報がどう扱われているのかは、はっきりとは分かっていません。
この問題が重要な理由は、私たちが日常的に見ている世界(古典的な世界)と、ミクロの世界(量子力学)で起きることとの間に、深刻な矛盾が生まれるからです。
私たちが暮らす日常の世界では、例えば紙を燃やすと元の形や書かれていた情報は完全に失われてしまうように見えます。
一方、極めて小さい世界の現象を扱う量子力学の世界では、「情報は決して失われない」とされます。
どういうことかというと、紙を燃やしたとしても、燃えた紙の灰や煙、さらに空気中に散らばった分子や熱エネルギーなど、すべての小さな粒子やエネルギーの動きを完全に追跡できれば、理論上は元の情報を取り戻せる、という考え方です。
量子力学では「情報が消えたように見える」のと「実際に情報が消える」のは全く違うことだと区別しており、「情報は絶対になくならない」という原則を守っています。
ところがブラックホールは、この量子力学の原則を脅かしてしまいます。
ブラックホールに飲み込まれた情報が本当に消えてしまうとすると、「情報は失われない」という量子力学のルールと正面から矛盾します。
この深刻な問題は「ブラックホールの情報パラドックス」と呼ばれ、物理学における大きな謎のひとつとなっています。
そこで、このパラドックスを解決するために「ブラックホールにも目には見えない非常に小さな特徴があり、それが情報を記録しているのではないか?」という仮説が登場しました。
これは「量子的な毛(りょうしてきなけ)」と呼ばれるもので、ホーキング博士をはじめとする科学者が提案しました。
特にブラックホールの表面にはとても弱いエネルギーの粒子(「ソフトな毛」)が存在していて、そこに情報が隠されているのかもしれないという考え方です。
ただし、この量子的な毛は非常に弱く、現在の技術でははっきりと観測することは困難です。
そのため科学者たちは、まず量子力学を考えず、一般相対性理論の範囲内でブラックホールが本当に「毛がない」のかを観測によって調べようと考えました。
一般相対性理論が正しいなら、ブラックホールが合体するときに発生する重力波(時空の波)も、ブラックホールの質量と自転だけで完全に決まるはずです。
逆に言えば、実際のブラックホール合体から発生する重力波を観測すれば、「毛」があるのかどうかを調べられるわけです。
近年になって「重力波望遠鏡」という新しいタイプの望遠鏡が登場し、ブラックホールの合体を実際に観測できるようになりました。
これにより、多くのブラックホール合体イベントから出る重力波を使って、「本当にブラックホールには毛がないのか?」という理論を検証する研究が活発に行われるようになったのです。