花粉からナイル川の水位の変化を特定
ギザの大ピラミッドは、ナイル川中流の西岸に位置し、他のカフラー王(在位:BC2558年〜2532年)のピラミッド、メンカウラー王(在位:BC2532年 〜2504年)のピラミッドとともに、「三大ピラミッド」と呼ばれています。
また、考古学者らは以前から、当時のピラミッド建設者たちは、ナイル川から水路を拡張して、ギザの麓に港湾施設を整備し、毎年のナイルの氾濫を利用して、建築資材を運んでいたと考えてきました。
ギザのピラミッドは、今日のナイル川から西に約7キロも離れていますが、ボーリング調査により、ナイルの支流がかつて、ギザの付近まで伸びていたことを示す岩層が見つかっています。
それでも、建設当時のナイル川が、重い資材を積んだ荷船を浮かせるのに十分な水位を保っていたのか、という疑問が残っていました。
そこで研究チームは今回、「花粉」の化石に注目し、古代のナイル川における水位の変化を明らかにすることにしました。
花粉は、古代の堆積物によく保存されており、現在とは異なる過去の気候や植生景観を復元するために使用されます。
チームは、「三大ピラミッド」の東側に位置する、ナイル川の氾濫原(はんらんげん:河川が洪水時に冠水する領域のこと)の5カ所から堆積物サンプルを採取し、そこから60種類以上の花粉を特定しました。
これらの花粉を分析し、植物の繁栄と消滅の期間を追跡することで、年代ごとの水位の上がり下がりを明らかにしました。
その結果、約1万4800年〜5500年前の急激な降雨増加による「アフリカ湿潤期」に、ナイル川の水位が大幅に上昇したことが判明。
さらに、それ以降も比較的高い水位を維持しており、ギザの大ピラミッドが建設された約4500年前も、荷船が航行するのに十分な水位を保っていたことがわかりました。
当時の建設者たちは、この豊かな支流を利用して、水路をギザの麓まで拡張し、港湾群を築いたものと見られます。
しかし、のちのツタンカーメン王の治世(BC1349年〜1338年)になると、ナイル川の支流は乾燥により徐々に水位が下がり、それ以後は荷船を運ぶための水路も消失したようです。
このように、ナイル川の支流が、ギザのピラミッド群の近くまで建設資材を運ぶのに役立ったことは確かですが、ピラミッドの建設については、まだ大きな謎が残されています。
ギザの大ピラミッドは、もともと高さ146.6メートル、総重量600万トン、230万個以上の石材が用いられ、内部には複雑な通路や墓室が作られています。
これを現代の高度な技術を使わずにどうやって建てたのか、現時点で確実な答えは出ていません。
やはり、この謎に答えない限り、ピラミッドの探求は今後も永遠に続いていくでしょう。