古代ローマ人のショッキングな慣習6選
その1:「紫色」を身につけるのは禁止!
現代では誰がどんな色の服を着ようと自由ですが、古代ローマでは、一般市民が紫色の衣服を身につけるのは固く禁じられていました。
というのも、ローマ社会における紫色は「王族」や「権力」と結びつく特権色だったからです。
そのため、紫色のトーガ(長衣)を着るのは、皇帝をはじめとするごく少数の特権階級に限られていました。
なぜそうなったかというと、紫色の染料を作るのに非常なお金がかかったからです。
当時、紫色の染料はすべて近隣のフェニキアで生産され、そこから輸入されていました。
フェニキアの諸都市で紫色の生産が始まったのは紀元前1600年頃とされ、原料はアカニシ貝の内臓から得られます。
しかし、トーガ1着分の染料を作るには、およそ1万匹のアカニシ貝を砕かなければならず、非常な高値で売買されたという。
以来、紫はローマ以外でも高貴な人々のみ手に入れられる色となりました。
ちなみに、英語で「born in purple」というと「王家の生まれ」とか「高貴な家柄に生まれた」という意味になります。
その2:娼婦は髪を「金髪」に染めなければならない
古代ローマ社会では、売春が100%合法であり、利用した男性が後ろ指をさされたり、社会的に非難されることは一切ありませんでした。
一方で、娼婦の多くは下層階級や奴隷の女性であり、ローマ市民に見下される傾向にあったのです。
そこで一般民の女性たちが娼婦と間違われないように、娼婦は髪を金髪に染め上げることが義務付けられました。
なぜ金髪かというと、純粋なローマ人として生まれた女性は基本的に黒髪であったのに対し、金髪はガリア人などの”未開な野蛮人”とされた人々に特徴的な髪色だったからです。
このルールは法律化までされたのですが、しばらく後に、ある理由から意味をなさなくなりました。
というのも、ローマ市民の女性たちがセクシーな金髪を羨むようになり、自分たちも金髪に染めるようになったからです。
あるいは、娼婦たちの頭を剃って、ブロンドのかつらを作ったとも記録されています。
その3:父親は我が子を2回まで「奴隷」として売れる
ローマ社会が数多くの奴隷から成り立っていたことは有名です。
その多くはギリシアなどの近隣地域から連れてこられた者たちで、ローマ市民は、法律でも破らない限り、奴隷になることはありません。
ただ一つだけ、特殊な例外がありました。
それは、ローマ市民の父親であれば自分の息子を奴隷として売ることができたのです。
正確には、「売る」というより「貸す」に近いものでした。
父親と買い手は、息子を奴隷として貸す期間と値段を相談して決め、期間が終了すれば、再び父親の元に戻されました。
しかし、息子を奴隷として売れるのは2回までで、3回目に売ると父親失格とみなされ、その息子は法律上、父親と縁を切れるようになっていたそう。
このルールはそれぞれの子どもに適用されたので、子だくさんの父親ほど奴隷商売で金儲けできたといいます。
「2回までならセーフ」という感覚が理解できませんが…
その4:究極の罪「父殺し」への罰が残虐すぎる
このようにローマ社会は厳格な家父長制であったため、父親の権力は絶対的なものでした。
それゆえ、父親が子どもを殺すことは許されていても、子どもが父親を殺す、いわゆる「父殺し(patricide)」は古代ローマにおける最も重い罪の一つとされていました。
よって、それに対する刑罰も残虐の限りを極めます。
まず、父殺しをした者は目隠しをされ、街から一番近い水辺まで連れて行かれます。
そして、複数の刑罰人により棒で死ぬ寸前まで袋叩きにされます。
その後、罪人は体を縛られ、ヘビや野良犬、サル、雄鶏などと一緒に袋詰めにされ、水の中に投げ込まれたのです。
罪人は水中で溺れ死ぬか、袋の中の動物たちに殺されるかどちらかでした。
その5:グラディエーターの死肉は「薬」として重宝された
グラディエーターは、古代ローマ史において特に人気の高いテーマであり、映画化もされました。
グラディーターとは、見世物として闘技場で戦った剣闘士のことです。
ローマの諸都市には円形闘技場が存在し、そこで剣闘士同士、あるいは剣闘士と猛獣の戦いが繰り広げられ、市民の絶大な人気を誇りました。
問題は、彼らの死体の一部が人々の薬として重宝されたことです。
ローマの医師たちは、筋骨たくましいグラディエーターの死肉を摂取することで、さまざまな病気の治療に役立つと信じていました。
特に血液と肝臓は、てんかん患者の治療に効果があったと言われています。
また、グラディエーターが入浴中に削り取った体のアカは、フェイスクリームや媚薬としても使われたそうです。
その6:公衆トイレの「尿」を回収して洗剤に!
古代ローマの公共施設といえば、テルマエ(大浴場)が最も有名ですが、大規模な公衆トイレもありました。
ローマには140以上の公衆トイレが設置され、毎日たくさんの人々が用を足しに来るので、大量の排泄物が出ます。
優れた技術者だったローマ人はこれを処理するために、「クロアカ・マキシマ(Cloaca Maxima)」と呼ばれる巨大な下水道設備を作りました。
さらにローマ人たちは、人々の汚物を水に流すだけでは済ましませんでした。
なんと彼らは、下水道に集まった尿を回収し、歯磨きや衣服の洗濯、皮のなめしに使う薬品として販売したのです。
また、街のクリーニング屋が自ら公衆トイレを訪れ、人々の尿を回収することもありました。
こうして尿はお金を稼げる大きなビジネスとなったため、当時のローマ皇帝ウェスパシアヌス(紀元9〜79年)は、尿に課税をするようになったと言われています。