巴御前、最後の戦い
京都に入り、発言力を持った義仲でしたが、次期天皇の後継者問題において後白河法皇と対立します。
義仲は「平家討伐の声を挙げた以仁王の遺児こそ天皇にふさわしい」と意見しましたが、後白河法皇は「孫である安徳天皇の弟を天皇に即位させる」とこれを却下。
結局、義仲の声は届かず、1183年8月に安徳天皇の弟が「後鳥羽天皇」として即位を果たしています。
さらに後白河法皇は、京都まで共に戦ってきた義仲の仲間たちを甘言で次々と取り込み、義仲を孤立させました。
これに不信感を募らせた義仲は、後白河法皇の御所である法住寺(ほうじゅうじ)を襲撃し、「法住寺合戦」が勃発。
後白河法皇を幽閉した義仲の立場は急転直下、今後は逆賊として源氏勢に追われる身となったのです。
そして1184年1月、京都の宇治川に追い込まれた義仲たちは、最後の戦となる「宇治川の戦い」を迎えます。
義仲軍の兵力はわずかに200騎。これに対し、頼朝から派遣された源義経が率いる源氏軍の兵力はおよそ6万騎。
もはや最初から勝負の見えた戦いでした。
『平家物語』にも、義仲軍の味方が減っていく様子や討ち死にした兵士たちの名前が書き残されています。
しかしこの状況下にあっても、一人、鬼神のような戦いを見せたのが巴御前でした。
巴は圧倒的不利な戦況に微塵も怯むことなく、次々と相手を討ち取っていきました。
その豪傑ぶりに唖然として敵将・畠山重忠(はたけやま・しげただ)は従者に対し、「あの女は何者か?」と問い尋ねます。
そこで従者は巴御前についてこう述べました。『平家物語』に記されている一文です。
「強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。(中略)軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を取らず。今井・樋口と兄弟にて、怖ろしき者にて候」
(=強弓の使い手で、荒馬乗りの達人。(中略)戦においては大将軍として勇猛果敢に戦い、ただの一度も失態を犯したことなし。今井兼平や樋口兼光の兄弟で、彼らに劣らぬ怖ろしい人物です)
このように巴御前は敵将も舌を巻くほどの戦いを見せましたが、負け戦に変わりはありませんでした。
命からがら京都から脱出した義仲勢が琵琶湖のほとりにたどり着いた頃には、義仲・兼平・巴を含め、わずか7騎しか生き残っていなかったのです。
しかしすぐ背後には数千騎の源氏軍が迫ります。
ここで義仲は側にいた巴御前にこう言いました。
「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後まで女を連れていたなどと言われるのは武士としての恥だ」
少し辛辣な言い方にも聞こえますが、大切な存在である巴御前を生き延びさせるためにこう言い放ったのでしょう。
これに対し、巴は「最後までお側におります」と言い張りましたが、義仲は頑としてこれを聞き入れず、「早く立ち去れ!」と繰り返します。
そうして巴は覚悟を決めたのか、「最後の戦してみせ奉らん(=最後の奉公でございます)」と言うや、豪傑として知られた追手の敵将・恩田八郎師重(おんだのはちろう・もろしげ)に一騎討ちを仕掛け、馬から引きずり落とすなり、首を切り取りました。
敵勢が唖然とする中、巴は武具を脱ぎ捨て、後を振り返ることもなく一散に東国(あづまのくに、現代の関東地方)の方角へと走り去ったのです。
巴が去った後、義仲は兼平と2人だけになってしまい、ついには敵の矢に射抜かれて命を落としました。
享年31歳でした。
主君の最後を見届けた兼平も後を追うように自害したと伝えられています。
これが『平家物語』で語られる巴御前についてのすべてです。
その後、彼女がどうなったかは詳しく語られていません。
異本の中では、越後国(現在の新潟県)に移り住んで尼となり、91歳まで長生きしたとの説もあります。
巴御前については『平家物語』にしか登場しないため、「本当に実在したのか」「創作された人物の一人ではないのか」との専門家の意見もたくさんあります。
確かにフィクションとして脚色をしていることは間違いないでしょう。
しかし主君に最後まで寄り添い、平安の乱世を生き抜いた一人の女武者が実在したことは信じたいところです。