二転三転した瓦の扱い・厳しかった庶民への統制
また火災を防ぐ方法として、建築規制も取られていました。
具体的には燃えやすいからという理由で、明暦の大火の後、江戸の町では屋根の材料として藁葺や茅葺を使うことが禁止されていたのです。
一方で瓦は防火性に優れていたものの、「瓦は重くて破壊消火の妨げになる」という理由や、「瓦は贅沢品である」という理由で、そちらも明暦の大火後土蔵以外の建物に使うことが禁止されました。
そのため江戸の町の家の屋根は基本的には板葺きだったのです。
瓦に関しては、その後軽量化して大量生産をすることができる「桟瓦(さんがわら)」が発明されましたが、瓦の規制が慣習的に続いてしまいなかなか広まりませんでした。
しかしこれ以降も火災が相次いだことにより、遂に1720年に防火性に優れた瓦を屋根の材料にすることが許可されました。
なお時の将軍はあの徳川吉宗(とくがわよしむね)であり、倹約を是とする吉宗ですら瓦の使用を許可しなければならなかったほど、当時の江戸で火災が問題視されていたことが窺えます。
その後瓦葺の屋根は江戸中に普及していき、1792年には「瓦葺以外の家を作ってはいけない」というお触れが出たほどです。
さらに江戸の町では、火事にまつわる取り締まりが頻繁に行われ、町人たちは「火の用心」という呪文のような触書に囲まれて暮らしていました。
1609年には早くも喫煙が禁止され、町の上空に紙鳶(凧)を飛ばして火をつける遊びも即刻禁止されたのです。
火事が発生するたびに、幕府は町人たちの暮らしに次々とルールを設けていきました。
例えば、家の軒先には水桶と梯子を備えるよう命じられ、町中に防火用の井戸も掘られました。
また、薪の積み方にまで規制がかけられ、火災のたびに江戸の町並みが少しずつ「火を警戒する風景」へと変わっていったのです。
幕府は町方の営業も厳しく見張り、夜間の煮売りや深夜の不審者の巡回を禁止します。
やがて、花火や仕掛け花火も許されなくなり、火事の騒ぎにかこつけて浪人たちが騒ぐことも取り締まられるようになったのです。
挙句の果てには、風の強い日には家に戻れという厳命まで出され、屋根の上に番人を立てて火の監視を行うことまで始まりました。
こうして江戸の町人たちは、日々の生活にどんどん窮屈な規則を押し付けられていったのです。
しかしそのような努力もむなしく、江戸の町で火災が無くなることはありませんでした。
そのようなこともあって江戸の人々は「財産をため込んでいてもどうせ火事で燃えてしまうのだから、すぐに使った方がいい」と考えるようになり、これが「宵越しの銭は持たない」という江戸っ子の気風の遠因になったのかもしれません。