農民も貴族もバタバタ死んだ天然痘

このように奈良時代には疫病が大流行しましたが、具体的にはどのような病気が流行したのでしょうか?
疫病の種類は大きく分けて二つあり、それは独自の土着感染症とアジア大陸からの新たなウイルスです。
まず、国内には日本住血吸虫やマラリア原虫が古くから存在し、田んぼで働く農民がこうした寄生虫に感染することも少なくありませんでした。
特に夏場には田んぼの水や、川や池で捕まえた魚貝類を生で食べることで、様々な寄生虫病が広がっていたのです。
また、暑さの中で冷たいものを求める傾向や、頻繁に発生するハエが赤痢などの消化器感染症を蔓延させました。
さらに、日本を襲ったエピデミックの多くは、新型の呼吸器感染症が原因でした。
これらはアジア大陸から渡ってきたウイルスによるもので、特に735年から始めった天然痘の流行は凄まじく、太宰府を経て西から東へと人々の命を次々と奪っていったのです。
天然痘の勢いは驚異的で、京を中心に全国へ広がり、ついには支配層の藤原四兄弟までもが病に倒れ亡くなりました。
一説によれば、感染の最も激しい時期には、日本の総人口の3割近くが命を落としたとされ、都の貴族も例外ではなかったのです。
国の中枢を担う者たちが次々と消え去る中、残された政務を担ったのは橘諸兄でした。
彼は藤原氏の後釜として政権を手にし、その後、農地の私有を許す「墾田永年私財法」を発布し、疫病で荒廃した社会の立て直しに奔走したのです。
本来なら島国である日本では、こうしたウイルスが土着することは稀で、通常は大陸との往来が少ないことで新しい病から守られていました。
しかし一度往来が活発になると、その海という「盾」は無力となったのです。
その上これまで人々がウイルスに触れていなかったことにより、人々は抗体を全く持っておらず、そのこともあってウイルスは猛威を振るい、屍が街を埋め尽くすほどの惨状を招いたのです。
以降も天然痘のエピデミックは数回発生し、10世紀頃に天然痘が日本に定着するまでなくなることはありませんでした。
余談ですが、現在でも感染症が拡大した場合は政府が槍玉に上げられることが多々ありますが、当時は「災厄は天皇の徳がないから起きたのだ」という信仰があったこともあり、現在と同じように政府を吊るし上げる動きがありました。
それを受けて当時の天皇である聖武天皇は仏教に深く帰依するに至り、都に東大寺と盧舎那仏像(奈良の大仏)を建立することで、国を救済しようとしたのです。
こうして出来上がった大仏は、ただの銅像ではなく、国家全体の祈りと犠牲の象徴として今日までその威容を保っています。