幻の量子蝶が今ここに──理論だけだった存在の“捕獲”

研究者たちはまず、二枚のグラフェン(炭素原子がハチの巣のように並んだ極薄いシート)を、わずか約0.6度の小さな角度で重ねるという特殊な方法を試しました。
グラフェンというのは、炭素原子がハチの巣のように並んだ「とても薄いシート」です。
このシートを二枚用意して、2枚目をほんの少し(約0.6度ほど)ねじって重ねると、波紋が重なるように「モアレ模様」という大きな周期のパターンが生まれます。
それは、プールに石を2つ落としたとき、波が干渉し合ってできる複雑な模様をイメージすると分かりやすいかもしれません。
ただし、実際にはこの模様はナノメートル(1ミリの100万分の1)以下という極小の世界で起きているので、普通の顕微鏡ではとても見えません。
ここで登場するのが、極低温(とても冷たい環境)でも作動できる「STM(走査型トンネル顕微鏡)」と「STS(分光手法)」です。
STMは、針の先をサンプルのごく近く(原子数個分ほどの隙間)まで近づけ、ごくわずかな電圧をかけると流れる“トンネル電流”を測定する装置です。
その電流の変化を地図のように可視化することで、サンプル中の電子たちの「エネルギーの分布」がわかるというわけです。
さらにサンプルの下に“ゲート電極”という仕組みを入れ、電圧をかけることで“電子の数”を増やしたり減らしたりできます。
お菓子の入ったビンに例えるなら、「ビンの中にどれだけお菓子(電子)が入っているか」を自由に変えながら、ビンの中の様子を手に取るように調べられるイメージです。
さて、こうして電子の数や磁場の強さなど、いろいろな条件を組み合わせると、ある時、エネルギーバンド(電子のとるエネルギーの範囲)が波紋のように「バリバリッ」と分裂していく様子が見えてきました。
これが、かつて理論でしか語られなかった「ホフスタッターの蝶」のフラクタル模様です。
フラクタルというのは、拡大しても同じような模様が何度も出てくる特徴をもつパターンのことで、雪の結晶やシダの葉っぱなどが身近な例。
この量子の世界で、それがまるで蝶の羽の模様のような形をして現れるため、「ホフスタッターの蝶」と呼ばれています。
しかも、調べてみると、磁場が弱い時には電子同士の結びつきが強くて“ギャップ”と呼ばれる隙間ができるのに、磁場を強くすると不思議とその相互作用が弱まり、バンドが広がってしまう、という意外な動きも見つかりました。
これは、単純な理論では説明できないほど複雑な要素(スピンやバレーなど量子の性質)が、蝶の羽ばたきに影響を与えているからだと考えられています。
なぜ今回の成果がすごいのか?
第一に、長年「数千テスラ級の超強力な磁場がなければ観察できない」と思われていたホフスタッターの蝶を、モアレ超格子によってわずか数テスラ程度でも観察できると証明した点です。
第二に、これまで理論や間接的な測定から推測するしかなかった量子現象を、STMの“分光画像”というはっきりした形でとらえられた点にあります。要するに、電子たちがどんなバンド構造を作り、どんなふうに分裂や再配置を起こしているかを“直接見る”ことができたわけです。
これによって、ねじれた二層グラフェンのような“モアレ材料”には、私たちがまだよく知らない「トポロジカル相」や「超伝導相」といった新しい物性が隠れている可能性がさらに高まったといえます。
わずか0.6度のねじれが生み出す量子の舞台で、電子たちが踊る姿を最前列から観察する――それが今回の研究の意義です。かつては理論上だけの“幻”とされてきた量子のフラクタル模様が、ついに“リアルな”実験データとして私たちの前に現れた瞬間でもあります。