暴力によるトラウマは人間でも遺伝する可能性がある:シリア難民の遺伝子に特定の変化
暴力によるトラウマは人間でも遺伝する可能性がある:シリア難民の遺伝子に特定の変化 / Credit:Canva
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暴力によるトラウマは人間でも遺伝する可能性がある:シリア難民の遺伝子に特定の変化

2025.04.08 21:00:45 Tuesday

暴力によるトラウマは、心の奥底に刻みこまれるだけでなく、私たちの遺伝子にも何らかの“痕跡”を残すのではないか――。

シリアの三世代にわたる難民家族を対象に実施された新しい研究が、その問いに一石を投じました。

アメリカのフロリダ大学(University of Florida)人類学部門を中心とする研究チームによれば、親や祖父母が暴力を体験した際に起こるDNAメチル化(遺伝子の化学的変化)が、子どもや孫世代に引き継がれる可能性を示唆しています。 

この見解は決して孤立したものではありません。

ホロコーストルワンダ虐殺の生存者とその子孫を対象にした先行研究でも、似たようなエピジェネティック変化が見られたとの報告があるのです。

しかしながら、学界では「本当に遺伝的に伝わっているのか?」「伝わる仕組みは何なのか?」といった点をめぐり、議論が続いています。

アイカーン医科大学(マウントサイナイ)の神経科学者、レイチェル・イェフダ氏は「これは、世代を超えたトラウマの生物学的痕跡を調べるための本当に素晴らしい試み」と評価する一方で、「まだ“証明”と呼べる段階にはなく、解釈には慎重さが必要」とも指摘します。

舞台となるシリアでは、40年以上にわたり内戦や政治的迫害などの暴力が途切れたことはありません。

1980年代に行われた市街爆撃や、2011年の紛争激化など、幾度となく繰り返されてきた惨劇が、現地の人々に深い心的外傷を与えてきました。

今回の研究は、こうした複数の暴力期を経て避難を余儀なくされた難民家族のDNAを精密に分析し、世代間で共通するメチル化パターンが存在するかどうかを探っています。

科学界を揺るがすこの発見は、暴力の傷痕が私たちの身体の“設計図”にも書き込まれ、次世代へと受け渡される可能性を問いかけるものです。

果たしてトラウマの記憶は、どのようにして未来へと連鎖し得るのか――本記事では、その最前線に迫ります。

研究内容の詳細は『Scientific Reports』にて発表されました。

Epigenetic signatures of intergenerational exposure to violence in three generations of Syrian refugees https://doi.org/10.1038/s41598-025-89818-z Leukocyte Methylomic Imprints of Exposure to the Genocide against the Tutsi in Rwanda: a Pilot Epigenome-Wide Analysis https://doi.org/10.2217/epi-2021-0310 Influences of Maternal and Paternal PTSD on Epigenetic Regulation of the Glucocorticoid Receptor Gene in Holocaust Survivor Offspring https://doi.org/10.1176/appi.ajp.2014.13121571

人間でも暴力体験の遺伝を示唆する研究が増えている

暴力によるトラウマは人間でも遺伝する可能性がある:シリア難民の遺伝子に特定の変化
暴力によるトラウマは人間でも遺伝する可能性がある:シリア難民の遺伝子に特定の変化 / Credit:Canva

トラウマと呼ばれる心の傷は、しばしば「忘れられない記憶」として語られます。

しかし近年の研究によれば、その“記憶”は脳だけでなく、私たちの遺伝情報を読み取る仕組みにも刻まれている可能性が示唆されています。 

こうした考え方を支えるのが、胎児期の環境が将来の疾患リスクや発達に影響を与えるとするDOHaD(Developmental Origins of Health and Disease)仮説です。

もともとは栄養不足や毒素への曝露などが取り沙汰されてきましたが、暴力や虐待といった心理的ストレスもまた、DNAの「メチル化」という化学的タグを通じて“体に刻まれる”のではないかというわけです。

実際、ホロコーストの生存者やルワンダ虐殺の生存者とその子孫を対象にした研究では、親世代の恐怖体験が子どもの遺伝子上のメチル化パターンに反映されている可能性が報告されています。 

DNAの配列自体は変わらなくても、あたかも「ノートに貼られた付箋」のようなメチル化の変更が、遺伝子のオンオフを左右するのです。

ただ、ヒトの受精や妊娠の初期段階では、いったん多くのエピジェネティック修飾が“リセット”されるとされており、「いったいどうやってトラウマの痕跡が次の世代へと渡るのか?」という疑問は長らく残っていました。

動物を使った研究では、母親が極度のストレス下にあると、子ども世代どころか孫世代までも振る舞いや体質に変化が生じるケースがあるといいます。 

慢性社会的敗北ストレスは父マウスから子へ「精子にのって遺伝する」と明らかに

ごく一部のDNA領域は“リセット”の網をかいくぐるという報告もあり、人間の場合にも同様のメカニズムが存在するのではないかと予想されています。

こうした視点から見ると、シリアの状況はまさに“エピジェネティックの長期的影響”を確かめるのに、ある意味で悲しいほど適した条件をそろえています。

1979年の反乱鎮圧から1982年のHama市攻撃、さらに2011年以降の政情不安と内戦――国全体が四十年以上、ほぼ途切れることなく暴力と恐怖の中にあり、何世代にもわたって家族が避難を余儀なくされてきました。

そんな苦難の歴史をくぐり抜けた人々は、「心の痛み」を超えて、もしかすると「体にこびりつく傷痕」をも抱えているのかもしれません。

そこで今回研究者たちは、シリア難民三世代の家族を対象に、直接的な暴力体験・妊娠期の胎内暴力曝露・祖母の妊娠時期における生殖細胞レベルでの暴力曝露を比較し、DNAメチル化パターンを網羅的に解析することにしました。

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