現代ネット社会にも通じる心理──アンチの存在が信者の結束を強める
この研究は現代では主流の心理学研究の多くが発表前だった70年前のものです。
そのため、当時は認知的不協和理論の枠組みのみでこの現象が説明されましたが、現在ではフェスティンガーのこの興味深い観察報告について、より多層的な解釈が可能になっています。
まず注目されているのが社会的アイデンティティ理論(Social Identity Theory)です。これは1970年代にイギリスの社会心理学者ヘンリー・タジフェルらによって提唱されました。
この理論によれば、人は「自分がどの集団に属しているか」によって自己評価や行動を決める傾向があり、無意識のうちに周囲の人達を「内集団(ingroup、自分たちの仲間)」と「外集団(outgroup、その他の人間)」に分け、内集団に対して強い忠誠心や連帯感を持つようになります。
The Seekersでも、外部の嘲笑や否定的な報道によって「信者」対「大衆」という対立構造が強化され、信者たちの仲間意識と信仰心がむしろ強まっていたと考えられます。
また行動経済学におけるサンクコスト効果(Sunk Cost Effect)も関連すると考えられています。
これは「すでに費やした労力やお金、時間を無駄にしたくない」という心理から、状況が悪くなっても行動を変えられなくなる現象です。(この現象は、音速旅客機コンコルドの開発が典型例として紹介されるため、一般にはコンコルド効果という名で知られています)
The Seekersの信者たちも、すでに仕事や財産、家族や人間関係を犠牲にしてきたことから、「ここで信仰をやめるわけにはいかない」という心理に陥ったと考えられます。
さらに心理学の心理的リアクタンス(psychological reactance)から解釈することもできます。
これは1960年代にジャック・ブレームによって提唱されたもので、人は自分の自由や選択肢が奪われると反発するという心理的傾向を指します。
この現象は、ネット上では「カリギュラ効果」という呼び名で有名です。これは「カリギュラ」という映画が、過激な内容により公開禁止になった途端人々の関心を大きく集めてしまったという出来事からメディアが作った用語です。(カリギュラ効果は学術用語ではなく、主にコンテンツ規制に対して使われる俗称)
「心理的リアクタンス」はもっと広範な現象を扱っており、親への反抗期や、The Seekersの信者たちの行動に対しても適用されます。
この文脈では周囲から「やめろ」「間違っている」と否定されることで、信者たちはその反発から「自分たちは正しい」という確信を強めてしまったと考えられるのです。
このようにThe Seekersの事例は、当時は認知的不協和のみで説明されましたが、現在では社会的アイデンティティ理論、サンクコスト効果、リアクタンス理論など複数の理論を組み合わせることでより包括的に理解されています。
SNS社会ではカリスマ的インフルエンサーやアイドルをめぐるファンとアンチの対立にも同様の心理構造が見られます。

そう考えると、The Seekersの研究は、70年前にすでにネット社会における人間行動のパターンを先取りしていたと言えるかもしれません。
カルト教団への潜入調査という型破りな手法と、人間心理の根源に迫った先駆的研究。
フェスティンガーたちの『When Prophecy Fails(予言が外れるとき)』という研究は、人がなぜ「間違いを認めず信じ続けるのか」という普遍的な疑問への答えを提示しました。
間違いは誰にでも起きるものです。重要なことは早期にその間違いを認め改善点を見つけ出すことです。
しかし、間違いを認めない限り、その問題は永遠に解決されません。人が失敗を認めない心理を理解することは、問題解決を早める最も重要な知識となるでしょう。
まるでコロナに罹っても重症化しなかったみたいな話ですね、さて真実はどっちだ
新興宗教は往々にして上京者の社会の居場所の役割を果たしました。田舎の共同体社会では地域住人との繋がりが強すぎる程にあったのが、都市部ではそのしがらみがなく、状況者はその持て余した自由と時間をサークルなり地域活動なりに注ぎ込み自ら束縛されに行き、その選択肢の一つが新興宗教だったのです。それもいきなり最初からそこに依存しに行くのではなくて、学校や職場や地域に馴染めないコミュ障が自分の居場所を求めて流れ着くのでした。つまり既存の社会で満足な承認を受けられなくて居場所がどこにもないから寂しさを埋めるために、或いは個人アイデンティティ形成が未達成で他人に流される状態であるために、最後に宗教に辿り着くんです。宗教には多少の強制力があり誰でも居場所や役割をあてがわれ他人と関われる大義名分を持てます。クラスみたいにあいつ気に食わねえからハブろうぜみたいなのが滅多に無いのが心地良いんです。その居心地の良さが所属意識や信仰の強まりのエネルギー。親が子を宗教に嵌らせたくなかったら十分な承認と共感と温かさと楽しさを与えれば良く、具体的にどうすればいいか分からなかったらとにかく黙って話を聞く事です。このただ話を聞くというのが100人に1も出来ない。むしろ8割方自分の価値観を押し付けて終わり。だから宗教に逃げ込ませてしまう。すると今度は親や周囲はあいつはバカだからどうしようもないみたいに本人のせいにする。元は自分たちがクズなのが原因なのにそれを認めようとしない。新興宗教二世が毒親として子を虐待するのも良くある事だけど、そういう親はやはり個人アイデンティティが欠けていたり主体性が無かったり人付き合いが下手だから他人の言いなりになる、子に対しては反対に言いなりにしたがる。これは新興宗教信者に限らず教育虐待家も全く同じです。自信が無いから世間の価値観に流される、社会が学歴主義だから子にそれをぶつける。子が違和感を訴えても親は学歴に代わる自分個人の絶対的価値観を持っていないから子が固有アイデンティティを持つ事を認められない。学歴主義も立派にイデオロギーであり宗教ですよ。日本は世界一の世俗大国てあるために宗教思想ばかりを毛嫌いするけど、経済も国家もアイドルもスポーツ団体も全部紐帯要素を持つ妄想なのは同じです。それらの中で宗教だけを特別扱いする事こそ妄想です。天皇の天という字にすら私たちの地位は妄想の産物ですという意味が含まれています。
大変興味深い意見です。
が。適当な位置で改行・段落分けしていただけるともっと読みやすいと思います。
このような心理学の先駆的研究が奇蹟の年1953年に行われていたとは驚きです。「自分たちは正しい」「俺は悪くない」と頑なに正当性を信じる人々に対して,その考えは「間違っている」と否定すると逆に反発して,間違いを一層正当化する心理について,少しだけ理解できたように思います。また,権力者や専門家などの個人だけではなく,政治,司法,行政,会社,学問などの多くの制度や体系,そして生成AIですら頻繁に「間違い」を起こすのですから困ったものです。
ところで,この「間違い」を一体誰が,どのようにして確かめることができるのでしょうか?
ゲーデルの不完全性定理(ハイデンベルクの不確定性原理とよく間違えます)を持ち出すまでもなく,その体系の内部,つまり閉鎖系組織の中にいる限り,自分の間違いを認めるのは極めて困難です。なるべく,釈迦の手の平から抜け出さなければいけないと思いながら,いつも中途半端で投げ出してしまいます。本当に,その閉鎖系の中に立っていながら,そこで起きる間違いを認め,改善点を見つけ出すことは可能なのでしょうか?
ww2の日本軍…
そして、いま、日本軍より激化先鋭してしまってるわ…
俺は悪くねぇ!!
俺は悪くねえっ!!
※マジで悪くない