分散型情報処理システムが単細胞生物を優雅に泳がせる
なぜ脳がない単細胞生物でも優雅に泳ぐことができるのでしょうか?
最新の顕微鏡解析やバイオフィジクス研究によって、ゾウリムシやアメーバのような単細胞でも「からだ」が一枚岩ではなく、繊毛、べん毛、細胞骨格、膜下のモータータンパクなど複数の“部品”で組み上げられていることがわかってきました。
興味深いのは、それぞれの部品が独立して外界の刺激を受け取り、ごく局所的なルールで反応を決める点です。
たとえば化学物質の濃度勾配を感じる受容体はべん毛モーターに信号を送り、べん毛は回転方向を変えて細胞をくるりと向き替えますが、その指示は「隣の部品」までしか伝わりません。
にもかかわらず、細胞全体としてみると最短経路で栄養源へ向かう軌跡を描き、障害物があっても滑らかに回避できます。
さらに、化学ネットワークの「記憶効果」によって刺激履歴を数分単位で保持し、次の行動を先読みする学習様式まで備わることが報告されています。
つまり単細胞生物は、分散した多数の簡単な計算ユニットが協調して「即席の脳」を構築していると言えるのです。
そのしくみは、中央処理では再現の難しい特性を持ちます。
たとえば分散処理は情報を一極集中させずに並列で流すため、シナプス式の脳型ネットワークに比べて遅延が少なく、環境変化への初動が速いという利点があります。
特に故障体制は注目に値します。
分散型処理利ステムはリンクが途切れたり一部のモーターが壊れても、残る部品が自律的に役割を補完し、泳ぎを維持する堅牢性まで備わる点は脳型システムに勝る場合すらあります。
単細胞の泳ぎが優雅に見えるのは、脳に頼らずとも無数の小さな意思決定が瞬時に重なり合い、一つの統合された行動へと昇華している証しと予測されています。
ただ先に述べた通り現状、その予測を十分に証明することはできていません。
そこで研究チームはこの問題をコンピューターシミュレーションで調べることにしました。
まず微生物のモデルとして、複数の球状の粒(ビーズ)を糸でつないだ「ビーズ連結体(数珠状の鎖)」を仮想的に作り出しました。
これは細胞の内部にある各種の要素をモデル化したものとなります。
各ビーズは隣のビーズとの腕を縮めるたり伸ばしたりすることで動くことができますが、ビーズ自体に与えられる情報は自分の両隣にいるビーズの位置だけです。
生物全体の状態や遠く離れた部分の情報はまったく分からない仕組みになっています。
準備が済むと研究者たちはシミュレーションを開始しました。

すると、小さな粒が並んだだけの構造でも、適切な動かし方によって効率的に泳げることが示されました。
次に研究チームは、数理モデルに「学習する能力」を持たせて自律的に泳ぎ方を習得させることを試みました。
具体的には、仮想微生物の各ビーズをごく小さな人工知能(AI)と考え、試行錯誤させることで最適な行動ルールを見つけ出したのです。
このAIはパラメータが60個程度の小規模なニューラルネットワーク(人工の神経回路網)で構成されています。
(※パラメータが60というのはシナプスのような結合(重み+バイアス)が60個存在するという意味です。そのためニューロンに換算するとせいぜい数十個程度となります)
ハートル氏は「単細胞生物にはもちろんニューロン(神経細胞)はありません。しかし、細胞内にごく簡単な物理・化学的な回路を作ることで各部位に特定の動作を起こさせるような単純な制御系を実現することは可能です」と説明しています。
つまり、実際の微生物でも神経がなくとも化学反応などによる簡単な制御メカニズムが各部位に備わっていると考えれば、このモデルと矛盾しないわけです。
研究では、この分散型AIを遺伝的アルゴリズム(進化的アルゴリズム)と呼ばれる手法で最適化しました。
コンピューター内で仮想微生物を粘性のある液体に何度も“泳がせ”、各ビーズの制御コード(泳ぎ方のルール)を世代ごとに改良していったのです。
その結果、ごく単純な仕組みから驚くほど安定した泳ぎ方が獲得できることが示されました。
ハートル氏は「この極めて単純なアプローチで、非常に頑丈かつ効率的な泳ぎの動作が実現できることを実証しました。
中央の制御装置がなく仮想微生物の各部分はそれぞれ簡単なルールに従っているだけですが、全体としては効率的な移動に十分な複雑な挙動が発現したのです」と述べています。