シェイクスピアの悲劇が現実に—『オセロ症候群』とは何か

誰もが一度は、パートナーのささいな行動に不安を感じて、つい疑ってしまった経験があるかもしれません。
スマートフォンに届いたメッセージ、帰宅時間が遅れた日、あるいは何気ない表情の変化だけでも、「もしかして浮気?」と胸がざわつくことがあります。
普通であれば、それは一時的な不安で済みますし、パートナーの誠実さや状況説明を聞けば疑いも自然に晴れていくものです。
しかし、そうした普通の嫉妬心とは根本的に異なる病的な嫉妬が存在します。
それが「オセロ症候群」という精神疾患です。
オセロ症候群にかかると、パートナーがどれほど無実の証拠を示しても、患者は決してそれを受け入れず、妄想に取りつかれたように浮気を確信し続けます。
この疾患の名前は、シェイクスピアの悲劇『オセロ』の主人公に由来しています。
劇中でオセロは、周囲の悪意ある噂や些細な誤解から妻の浮気を妄想し、その妄想に支配されて破滅的な結末を迎えました。
現実に起こるオセロ症候群でも、この主人公と同じように妄想が暴走し、患者は完全に嫉妬心に支配されてしまいます。
症状が深刻化すると、言葉による攻撃はもちろん、時には身体的暴力を伴う事件にまで発展することがあります。
これまでの研究では、オセロ症候群は主に統合失調症、アルコール依存症、薬物乱用やパーキンソン病などの神経疾患を背景にして起こりやすいことが知られていました。
ところが非常にまれなケースとして、脳卒中がきっかけで突然こうした嫉妬妄想が現れる患者も報告されていました。
これらの症例は珍しく、なぜ脳卒中が嫉妬という特定の感情を激しくゆがませてしまうのか、脳のどの部分が壊れると妄想が生まれるのかはよくわかっていませんでした。
今回の研究チームが着目したのは、まさにその謎の解明です。
研究のきっかけになったのは、一人の女性患者の症例でした。
その女性は50歳で、これまで精神疾患やアルコール、薬物依存の問題とは無縁でした。
結婚生活も非常に良好で、夫婦は30年以上にわたり仲睦まじく暮らしていました。
ただ一つ、彼女には高血圧という持病がありました。
そんな彼女の日常が一変したのは、ある日、台所で料理をしている最中でした。
突然の激しい頭痛に襲われ、そのまま倒れてしまい、病院に緊急搬送されたのです。
医師の診察により、彼女は脳卒中を起こしていることが判明し、約2週間の入院生活を送ることになりました。
治療の甲斐もあり容体は安定し、退院を迎えましたが、病院を出て間もなく、予想外の出来事が起きました。
それまで何の問題もなかった夫に対して、突如として「妹と不倫をしている」と激しい疑いを持ち始めたのです。
妹は彼女の退院後の手助けのために訪れていただけで、浮気の証拠などは全くありませんでした。
それでも彼女は、夫の浮気こそが自分が倒れた原因だと周囲に言い触らしました。
さらに妄想は徐々に対象を変え、夫の浮気相手は妹ではなく、友人の娘だと信じるようになりました。
嫉妬心に支配された彼女の行動は日を追うごとに過激になり、夫が眠っている間にこっそり携帯電話を調べたり、夜中に夫を起こして浮気を責めたりするようになりました。
発症から約1年が経つころには、その妄想はついに暴力事件へとエスカレートします。
激しい怒りに駆られた彼女は刃物を持ち出し、夫を攻撃するという事件を、それも別々の機会に2度も起こしてしまったのです。
幸い深刻な怪我には至りませんでしたが、彼女自身は後に攻撃の事実を否定しながらも、妄想は一向に収まりませんでした。
なぜ、脳卒中をきっかけに、これほどまで激しく妄想が暴走してしまったのでしょうか?