脳卒中が『根拠なき嫉妬』を引き起こす理由

なぜ、脳卒中をきっかけに、これほどまで激しく妄想が暴走してしまったのでしょうか?
謎を解明するため研究者たちはまず、彼女に対して詳しい精神医学的な評価を行いました。
その結果、明らかになったのは、彼女が深刻な認知機能の低下に陥っているという事実でした。
記憶力は明らかに低下し、注意力や集中力にも大きな問題が見られました。
彼女の意識は嫉妬の妄想にばかり集中し、それ以外の事柄にはほとんど注意を向けることができなくなっていました。
認知機能を評価するための標準的なテスト(ミニメンタルステート検査、モントリオール認知評価)でも、正常値を大きく下回るスコアしか得られず、脳機能がかなり深刻に影響を受けていることが示されました。
研究者たちは、他の病気が症状を引き起こしている可能性を慎重に検討しました。
具体的には、認知症、薬物中毒、代謝異常などの可能性が詳細に調べられましたが、いずれも否定されました。
これらを踏まえて次に研究者たちは、患者の脳を詳しく検査することにしました。
脳の詳しい検査を行ったところ、脳卒中によって脳の奥深くにある「視床」という部位が損傷を受けていることが明らかになったのです。
視床とは脳の中で特に重要な役割を持つ、小さな「ハブ(中継地点)」のような場所です。
この視床は感情や注意力、記憶、さらに感覚情報や思考を統合するなど、脳全体の機能を円滑に保つための司令塔のような役割を担っています。
特に、左右に一つずつある視床のうち、右側の視床は感情や社会的な判断をコントロールする脳のネットワークと深くつながっているとされています。
今回の検査で、女性の脳卒中は非常に珍しいタイプで、左右両方の視床に損傷を与えていることが判明しましたが、そのうち特に右側の視床の損傷が強く見られました。
医師たちはこの右側の視床へのダメージが、嫉妬妄想という特殊な精神症状に直接的に関係している可能性が高いと判断し「脳卒中によるオセロ症候群(病的嫉妬妄想)」と正式に診断されました。
そして診断後から医療チームは症状の改善を目指して薬物治療が始まりました。
最初に使用されたのはクエチアピンという抗精神病薬です。
この薬により症状はある程度落ち着きを見せ、一時的に妄想は弱まりました。
ところが数ヶ月後には再び嫉妬の妄想がぶり返してしまい、症状が完全に消えることはありませんでした。
そこで医師たちは、新たにオランザピンという別の抗精神病薬を試してみることにしました。
すると今度は劇的な効果が現れました。
嫉妬妄想は明らかに弱まり、その後の経過観察の中でも再発は見られませんでした。
薬の量を徐々に減らしていっても症状が再び現れることはなく、約1年後には彼女自身が過去の妄想が事実無根であったことを理解し、自らの行動を冷静に振り返れるほどに回復しました。
夫への疑念も消え去り、以前の穏やかな生活を取り戻すことができたのです。