脳卒中が教えてくれる『心』の脆さ

今回の研究によって、脳の深部にある右側の視床が損傷を受けると、理性と感情のバランスが崩れて「根拠のない嫉妬」という妄想が暴走してしまう可能性が示されました。
この結果は私たちにとって衝撃的です。
なぜなら、「嫉妬」という誰もが経験するような日常的な感情が、脳の小さな領域の損傷によって簡単に病的な妄想にまで変貌してしまうことを意味しているからです。
特に興味深いのは、これがごく稀とはいえ、他の精神疾患や薬物乱用歴がない普通の人に突然起こりうるという点です。
実際、脳卒中の後に精神的な異常が起こるケースは以前から知られており、特に「嫉妬」をテーマにした妄想はそうした症状の中でも比較的多いものとして報告されています。
また過去の研究では、右脳半球の特定の領域が損傷すると他者への疑い深さや妄想的な嫉妬が生じやすいことも指摘されてきました。
では、なぜ右視床の損傷がこうした強烈な嫉妬妄想を引き起こしてしまうのでしょうか。
その鍵は、視床という脳の部位が持つ特別な役割にあります。
視床は大脳皮質という「理性的な判断や計画を司る領域」と、大脳辺縁系という「本能的で感情的な領域」をつなぐ重要な接続点です。
言い換えれば、視床は私たちが感情や理性のバランスを上手にとれるように、情報を整理し伝達する「ハブ」のような働きをしているのです。
特に右側の視床は、自分や周囲の状況を客観的に見たり、自分の感情を落ち着いて調整したりするために重要な働きをしています。
もしこの視床の機能が脳卒中によってうまく働かなくなると、私たちは自分自身や身の回りの出来事を正しく理解できなくなり、正常な判断力が失われてしまいます。
その結果、疑い深さや嫉妬などの感情が制御できなくなり、妄想的な思い込みにとらわれてしまうというわけです。
今回の症例を調べた研究者たちは、女性に認知症や薬物中毒など他の原因が一切ないことを確認した上で、「視床の限局的なダメージこそが彼女の嫉妬妄想を最もよく説明できる」と結論づけました。
こうした病的な嫉妬妄想は、単なる個人の精神的な問題にとどまりません。
家族やパートナーといった周囲の人を巻き込み、暴力的な行動にまで発展してしまうこともあるため、社会的にも見逃せない問題です。
だからこそ研究者は、こうした異常な妄想や精神症状をできるだけ早く発見し、適切な治療を行うことが非常に大切だと強調しています。
ただし今回の研究も、あくまでひとつの事例に過ぎません。
同じ脳卒中でも、すべての人が同じように嫉妬妄想を起こすとは限らないのです。
脳の損傷はその位置や範囲がほんの少し違うだけで、症状がまったく異なるものになってしまいます。
治療法もひとりひとり異なり、ある人に効いた薬が必ずしも別の人に効果をもたらすわけではありません。
しかし、一つひとつの珍しい症例報告を積み重ねていくことで、医療や科学は新たな手がかりや発見を得ることができます。
今回の研究もまた、脳という複雑な器官が人の心や感情にどれほど深く影響を及ぼしているかを教えてくれる貴重な事例です。
私たちの人格や感情というものが、脳内のわずかなネットワークの乱れで簡単に変わってしまうかもしれない――その事実を知ることこそが、心の健康を守るための重要な第一歩となるのではないでしょうか。