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history archeology

噴火後のポンペイ、盗人や放浪者が集まる「無法地帯」になっていた (2/2)

2025.08.11 20:00:21 Monday

前ページ破滅後のポンペイに人々が戻っていた

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無法地帯と化した街の姿

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ポンペイの遺跡/ Credit: Parco Archeologico di Pompei

噴火前のポンペイと隣町ヘルクラネウムの人口は、合わせて約2万5000人と推定されています。

これまでの発掘では1300人の遺体が見つかっており、これは全体の1割程度に過ぎません。

多くの住民は街の外で命を落としたと考えられますが、生き残った人々の中には他の町に移り住んだ者もいれば、再びポンペイに戻る道を選んだ者もいました。

彼らの目的は単なる生活の再建だけではありませんでした。

廃墟の地下を掘れば、噴火当日に置き去りにされた宝飾品や高価な日用品が見つかる可能性がありました。

しかし同時に、そこでは腐敗した遺体と遭遇する危険もあったのです。

こうした状況は、計画的な都市運営とは程遠いものでした。

公共インフラや法的秩序は失われ、住人たちは自分の力で資源を探し、身を守るしかありません。

ズクトリーゲル氏は、当時のポンペイを「都市というより、まだ廃墟の形を残すファヴェーラ(スラム街)」と表現しています。

そこでは盗人や放浪者が入り混じり、灰に覆われた街をあさる――そんな日常が続いていたと考えられます。

ローマ皇帝ティトゥスは、ポンペイとヘルクラネウムの再建を試み、元執政官を派遣して無秩序を収めようとしました。

しかしこの計画は失敗し、街は噴火前の繁栄を取り戻すことはありませんでした。

再定住は西暦5世紀(約400年間!)まで続いたものの、最後は「ポッレーナの噴火」と呼ばれる別の火山活動をきっかけに完全に放棄されたとみられます。

私たちが知る「時が止まったポンペイ」は、実はその後も400年近く、人々の営みと混乱が続いた街でした。

そこはローマの秩序を失った灰色の集落であり、古代の廃墟を舞台にした、もう一つの歴史が息づいていたのです。

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噴火後のポンペイ、盗人や放浪者が集まる「無法地帯」になっていた (2/2)のコメント

ゲスト

まさにそんなポンペイを復興させるゲームが今度出ますよね。
あちらではうまくやれるでしょうか。

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