不確定性原理は本当に超えられるのか?成果と課題を読み解く

今回の研究は、これまで科学者たちが頭を悩ませてきた「量子の壁」、つまりハイゼンベルクの不確定性原理という大きな課題に対して、一筋の希望を示しました。
この成果の最も注目すべき点は、「不確定性原理を破った」のではなく、「巧みに回避する方法」を実験で示したことです。
とくに研究チームが考案した「モジュラー計測」という手法を使えば、従来は不可能だと思われていた二つの物理量(たとえば位置と運動量)を、ある範囲内では同時にこれまでよりずっと高い精度で測ることができるとわかりました。
それでは、なぜこれがすごいことなのでしょうか?
私たちが日常的に使う計測機器――時計やGPS、MRI(磁気共鳴画像)など――は、物理的な限界があります。
例えば、宇宙空間や深海のようにGPSが届かない場所では、自分がどこにいるのかを知ることがとても難しくなります。
そこで役立つのが「高精度な量子センサー」です。
今回の研究で示された新しい計測方法を応用すれば、こうした難しい環境でも、自分の位置を極めて正確に測ることが可能になるかもしれません。
また医学や生物学の分野でも、この計測方法の応用が期待されています。
体の中の細胞や微小な器官の動きを細かく正確に観察できるようになるため、病気の早期発見や新しい治療法の開発に大きく役立つ可能性があります。
さらに、地震の前兆や宇宙から届く微かな重力波といった、これまで捉えることが難しかった現象を検出するための超高感度センサーとしても大きな期待が寄せられています。
今回の発見を、私たちがよく知る別の重要な発明である「原子時計」と比べてみると、その重要性がより明確になります。
原子時計が登場したことで私たちは、非常に正確な時刻を得ることが可能になり、GPSシステムをはじめ通信技術などの多くの分野が飛躍的に進歩しました。
同じように、今回の研究で実証された高感度の量子計測技術は、新しい産業や科学分野を切り開く強力なツールとなる可能性を秘めています。
もっとも、こうした輝かしい成果にも、いくつかの課題や条件があります。
まず、この手法は現在のところ研究室の高度な環境下で単一イオンを精密に制御して行われており、そのまま実用機器に組み込めるわけではありません。
例えば、測定できる範囲(レンジ)が小さいため、いきなり大きな変化を測ることには向いていませんし、グリッド状態の生成や制御にはノイズの少ない環境と高精度なレーザー操作が不可欠です。
このように「小信号に特化するかわりに大域情報を犠牲にする」という特徴は、強みであると同時に弱みでもあります。
それでもなお、今回の研究は量子計測の世界において重要な一歩です。
さらに研究チームは今回、位置と運動量というペアだけでなく、「数(フォノン数)と位相」という、また別のペアに対しても同じ計測手法が使えることを実験的に示しました。
この「数と位相」に特化した量子状態は「NP状態」と呼ばれますが、このNP状態を実際の実験装置で作り出して、高精度な計測に成功したのは今回が初めてです。
つまり研究チームは、「数と位相」という新たな組み合わせの量子状態(NP状態)でも、自分たちが開発した計測方法が効果的であることを世界で初めて実験的に証明したのです。
これは、量子情報や量子誤り訂正といった分野にも応用できる可能性を示す、重要なマイルストーンです。
さらに論文の中では、より多くのイオンを並べた大きなイオン結晶や、測定時間を長くする工夫を加えることで、感度を何桁も向上できる可能性に触れています。
将来的には、この仕組みを多数の量子センサーに展開し、互いに同期させることで、今まで検出できなかった現象――たとえば宇宙から届くより微弱な信号や地球内部のわずかな変化――をとらえられる日が来るかもしれません。
今回の成果は複数の研究機関の協力によって達成され、データの共有や方法の詳細についても論文で公開されています。
再現性を重視し、他分野への知見展開を視野に入れた姿勢は、量子テクノロジー研究コミュニティに大きな刺激を与えています。
かつて「破れない」と思われていた量子の基本原理にも、条件次第で思いがけない抜け道が潜んでいる――今回の研究は、そのことを示した象徴的な出来事だと言えるでしょう。