第10位 グラハム・ベル「四面体凧」
アレクサンダー・グラハム・ベル(1847-1922)は、スコットランド生まれの発明家で、世界初の実用電話機の発明で知られています。
そんなベルも過去に大きな失敗作を作っていました。
それが「シグネット(Cygnet)」の名で知られる四面体凧(しめんたいたこ)です。
ベルは1895年から1910年の間、有人飛行機の発明を目指して、モーターを搭載できる凧の研究をしていました。
最初は1個の四面体から構成される凧から始め、最終的には、3393個の四面体からなる全長12メートル、重さ91キロのシグネットを製作しました。
何千もの四面体の中に風をとらえて閉じ込め、浮力を得るという仕組みです。
1907年12月6日に、カナダのノバ・スコシア州で飛行テストが実施され、見事にパイロットを乗せて離陸することに成功しました。
しかし、空中での操縦がほとんど不可能で、すぐに墜落しています。
残念ながら、このシグネットはボツとなりました。
第9位 トーマス・エジソン「キネトフォン」
映画を発明した人物の名はいくつか挙げられます。
その一人が、世界で最も有名な発明家、トーマス・エジソン(1847-1931)です。
エジソンは1891年に、初期の映画鑑賞装置であるキネトスコープを開発しました。
これは現在のような「みんなで座って観る映画」ではなく、「立ったまま一人でのぞき込む」ような形でした。
動く映像に当時の人々は驚きましたが、まだ音声はついていませんでした。
そこでエジソンは、すでに開発していた蓄音機のフォノグラフをこれに組み合わせます。
そうして作られたのが「キネトフォン」でした。
しかし、フィルムは大きな箱に収納されて、鑑賞者は腰をかがめなければならず、非常に窮屈で不快な思いをしていました。
結局、映写機としては市民権を得られず、商業的にも大失敗に終わっています。
ちなみに、今日あるような「みんなで観る映画」を可能にしたのはシネマトグラフという映写機で、フランスのリュミエール兄弟によって、1895年に開発されています。
第8位 旧ソ連「空飛ぶタンク」
第二次大戦時では、主要国がこぞって軍事技術に開発に邁進しました。
ジープやダクトテープのように成功したものもあれば、大失敗に終わったものもあります。
その一つが、旧ソ連が開発した空飛ぶタンク「アントノフA-40」です。
これは、戦車に取り外し可能なグライダー用の翼をつけ、空を飛べるようにしたものです。
上空から戦場に華麗に降りたって、地上部隊を支援するよう意図されていました。
ところが、1942年にプロトタイプが試作され、飛行テストが行われたものの、「運用は不可能」と判断されています。
その理由は、戦車が重すぎて、それに耐えうる翼を設計できなかったことです。
軍部はあきらめきれず、戦車から弾薬、燃料、銃、ヘッドライトなどを根こそぎ取っ払って軽量化を試みました。
それでも戦車は重すぎましたし、何より戦車としての価値がガクンと落ちてしまったようです。
第7位 任天堂「ファミコン」
任天堂といえば、世界のゲーム界で最もよく知られる企業の一つです。
そんな任天堂が1981年に開発したのが、家庭用ゲーム機のファミリーコンピュータ、通称・ファミコン(Famicom)でした。
ファミコンは、当時のアメリカが開発していたアタリ2600やコレコビジョンに対抗馬として登場しています。
ところが問題は、ファミコンに内蔵されたチップセットに欠陥があることでした。
この回路のせいでゲーム中にフリーズすることが多く、任天堂は売り上げの要となるホリデーシーズンに、すべてのファミコンのリコールを余儀なくされています。
しかしここで良かったのは、同社がすべてのファミコンを無償で交換し、迅速かつ丁寧な対応だったことです。
これにより、懸念されていたブランドイメージの低下は防がれました。
その後、任天堂は1990年に、改良版の「スーパーファミコン」を発表し、大成功を収めています。
第6位 AT&T「テレビ電話」
Skype、Zoom、Facetimeなど、テレビ電話は今や、世界中の人が日常的に使うアイテムとなっています。
しかし半世紀前には、SFの世界のものでしかありませんでした。
その中で、最初にテレビ電話の開発に着手したのが、アメリカの企業・AT&Tです。
同社は1964年に、ニューヨーク州クイーンズで開催された万国博覧会で、開発を進めていた「ピクチャーフォン」を出展しました。
さらに、シカゴ、ワシントン、ニューヨークのグランドセントラル駅の3か所に公衆テレビ電話を設置しています。
ところが、テレビ電話が人々の心に留まることはありませんでした。
原因はいくつかあり、一つは通話にかかる値段が1分あたり16〜27ドルと非常に高価であったこと、もう一つはスクリーンが低解像度だったことです。
結局、これらの問題点を克服するには、現代の技術を待たなければなりませんでした。
第5位 ビル・ゲイツ「タブレット」
続いても、現代では一般的となっている「タブレット」です。
特に、タブレット端末の世界では、アップル社のiPadが圧倒的な人気を誇っています。
しかし、世界初のタブレット端末は、かの有名なビル・ゲイツ(1955-)が、iPadより10年も前に発明していたのです。
見た目も機能も遜色ありませんが、致命的な欠点がありました。
ゲイツは2011年に「Microsoft Tablet PC」を発表し、当初は革命的な商品と思われました。
マイクロソフトOSのWindows XPを搭載し、デスクトップPCに比べて軽く、スリムで、持ち運びに便利でした。
問題は、単に小型のPCになろうとしたことです。
あまりにも巨大なOSを無理に搭載したため、発売当初は2000ドルという高額な価格になってしまい、商業的に失敗しています。
のちに成功を収めたiPadについて、ゲイツは「ジョブズ氏がわれわれよりも優れた仕事をしたということでしょう」と賞賛しています。
第4位 スティーブ・ジョブズ「NeXT」
世界で最も著名な起業家の一人であるスティーブ・ジョブズ(1955-2011)は、アップル社の共同設立者として知られます。
しかし、ジョブズは対人関係で問題を起こしがちで、アップル社は10年もしないうちに彼を解雇しました。
退社後、彼は700万ドルの私財を投じて「NeXT」という会社を設立します。
ここで最初に発表した製品は、学校や大学向けの高度なコンピューターシステムである「NeXTステーション」でした。
当初の評価は高かったものの、フロッピードライブの代わりにキャノン製の光磁気ドライブを採用したり、加工の難しいマグネシウム合金を使ったりと、ジョブズのこだわりが裏目に。
生産コストが高くつき、それに伴って価格も上昇し、思うように売れなくなったのです。
NeXTでのジョブズの挑戦は完全な失敗ではなかったものの、彼の思い描く「成功」には程遠いものでした。
ところが幸運なことに、アップル社がNeXT社を買収し、ジョブズは実りある家庭に戻ることができたのです。
その後の活躍はもはや説明不要ですね。
第3位 ジェームズ・ダイソン「掃除機」
ダイソン社のサイクロン式掃除機は、今や「吸引力の変わらないただ一つの掃除機」という宣伝文句であまりにも有名です。
同社の創業者であるジェームズ・ダイソン(1947-)は、現在、世界で最も裕福かつ有名な発明家の一人であります。
しかし、ここまでの道のりは、めまいのするような失敗の連続でした。
彼が、サイクロン式のタテ型掃除機を完成させるまでには、実に5127回もの失敗を重ね、破産寸前まで追い込まれています。
その間、ダイソンは奥さんの給料で養ってもらい、発明に没頭していたそうです。
のちに、ダイソンはこう語っています。
「誰もが、最初から成功するわけではありません。失敗を咎めるのではなく、そこから学びましょう。
私は今でも常に失敗していますし、それ以外の道を知らないのです」
第2位 ニコラ・テスラ「思考投影機」
ニコラ・テスラ(1856-1943)は、オーストリア出身の天才発明家であり、生涯を通じて、300件以上の特許を取得しました。
その中で最も有名は発明品はテスラコイルでしょう。
テスラはまた、厳密に科学的なものから超常現象まで、想像しうる限りのあらゆる分野に手を出しました。
彼のオカルティックな発明の一つに「思考投影機(Gedankenprojektor)」があります。
簡単に説明すれば、頭の中で思い描いたイメージをそのままスクリーンに投射する、というものです。
テスラは、自らのアイデアについて、「私はある時、思考の中で形成された明確なイメージは、反射作用によって網膜上に対応するイメージを生み出すに違いないと確信した」と話しています。
要するに、人間の網膜の内部を記録して思考のレプリカが入っていることを確認し、それをリアルタイムで画面に映し出すのです。
もちろん、その試みは完成せずに終わりましたが、テスラは自らの理論に自信を持っていました。
もしかしたら、この先の科学技術の進歩によって、思考投影機の発明が可能となるかもしれません。
第1位 ルイ・ル・プランス「ムービーカメラ」
エジソンの「キネトフォン」の項で述べたように、映画の発明の栄誉を誰か一人に与えることはできません。
ほぼ同時期に、複数人が映写機を発明しているからです。
その中にあって、非常に謎めいているのが、ルイ・ル・プランス(1841-1890)という人物です。
ル・プランスは、フランスで生まれたのち、イギリスとアメリカに渡り、発明家として活躍しました。
彼は1887年に、映画用の「単レンズカメラ」を開発。翌年10月に、イングランドのリーズで庭や橋の動画撮影を行い、妻の実家が営む工場などで披露しています。
これはエジソンやリュミエール兄弟といった他の発明家より、数年も早いのです。
当然、ル・プランスが「ムービーカメラを使って世界初の映画を撮影した人」として記録されてしかるべきでしょう。
ところがそうはなりませんでした。
1890年9月16日、パリ行きの列車の中で突然、謎の失踪を遂げたのです。
それは彼が映画技術の特許申請や、アメリカで計画されていた一般向けのデモンストレーションを行う直前のことでした。
警察の捜索もむなしく、彼の身体と荷物が見つかることはありませんでした。
結局、映画発明の栄誉は、エジソンやリュミエール兄弟のものとなっています。
失踪から1世紀後、パリ警察の記録の中に、ル・プランスによく似た溺死体の写真が発見されましたが、いまだ解決には至っていません。