極寒の地での10年に及ぶ調査
淡水プランクトンも磯の香りの元となるDMSPを生産しているのか?
謎を解明するため研究者たちは、極寒の地、ロシアのバイカル湖で「10年間」にわたり断続的な調査を行いました。
バイカル湖はモンゴルの北側に位置するアジア地域で最大の淡水湖として知られており、1年のほぼ半分(1月から5月)で凍結がみられる冷たい湖として知られています。
結果、植物プランクトンの一種である渦鞭毛藻「Gymnodinium baicalense」が、下の図のように、氷の内部に生じた僅かな液体で満たされたポケットなどで繁殖していることが判明しました。
このような小さなポケットは太陽放射によって藻類たちの成長が促進され、藻類たちの緑色の体によって吸収した熱によって氷の融解が促進され、それによってポケット内部の水量が維持されています。
(※もしこのポケットに殺菌剤を注入して内部のプランクトンたちを殺してしまうと、ポケットは融解状態を維持できなくなり凍り付いてしまうでしょう)
植物プランクトンたちは、このよな凍結ギリギリの過酷な環境の中でも太陽光を使って光合成を行い、生存していたのです。
そこで研究者たちはこの渦鞭毛藻には、凍結を防止するためにDMSPを作っている可能性があると考え、現地にDMSPの分析装置を搬入してリアルタイムの水質調査を行いました。
するとバイカル湖の渦鞭毛藻も、DMSPを生産していることが判明します。
さらにDMSPの濃度変化を追跡したところ、渦鞭毛藻たちは寒い日になるとDMSPを生産し、暖かくなって不要になると水中へ捨てていることが観測されました。
この結果は、従来海洋プランクトンの専売特許だと考えられていたDMSPを、淡水プランクトンたちも凍結防止のために生産していることを示しています。
また詳細な分析により、DMSPは寒い日だけでなく、ポケット内部の植物プランクトンの「人口密度」が過剰になり、生存環境が悪化した時にも放出されていることが判明しました。
つまり渦鞭毛藻はDMSPを凍結防止だけでなく、酸化ストレスなどの環境悪化に対抗する手段としても使用していたのです。
淡水、海水関係なく渦鞭毛藻がDMSPを生産するということは、この能力が渦鞭毛藻の先祖が共通して持つ特徴であったと考えられています。
そのためバイカル湖の渦鞭毛藻のDMSP生産能力にかかわる遺伝子は、バイカル湖で新たに獲得されたものではなく、共通の先祖から引き継がれたものと言えるでしょう。
また近年では、DMSPが分解されてできるDMS(磯の香り)は環境全体においても重要な役割を担っていることが明らかになってきました。
DMSは水に溶解せず空気中に拡散するため、海洋大気において雲の核となって雨をもたらします。
またDMSには「負の温暖化効果」があるとされ、温暖化効果を打ち消す性質があることが知られています。
さらにDMSPやDMSは海獣や海鳥がエサを探す際に重要な信号となっており、ウミガメが誤ってビニール袋を食べてしまうのも、表面に付着したDMS臭が原因だと考えられています。
DMSPやDMSの研究は地球環境に重大な影響を与えており、それゆえに淡水プランクトンがDMSPを生産するという新たな事実は、重要な意味を持つのです。
研究者たちは今後、調査の方向を遺伝学的な分析に移行させることで、淡水プランクトンたちのDMSPを生産する遺伝子を同定できると述べています。
そうなればバイカル湖だけでなく、日本の寒い地域に生息する淡水プランクトンたちもDMSPを生産する遺伝子を持っているかを知ることができるでしょう。
(※なお余談ですが、淡水域でも磯の香りに似た生臭い臭いを嗅いだことがある人もいるでしょう。海岸線で感じる磯の香りは主にDMSPが分解されて生成される硫化メチル(DMS)が原因ですが、淡水域では腐敗プロセスや藻類の大量発生(藻類ブルーム)によっても窒素化合物や硫黄化合物など生臭さの原因となる分子を放出することが知られています。そのため一般的な淡水域で感じる磯の香りは、単一の化合物に起因するものではなく、さまざまな要因が重なり合いで起きていると言えるでしょう。たとえば1858年に起きたロンドン大悪臭(ザ・グレート・スティンク)では、「人間の」生活排水や糞尿などが直接的な原因と考えられています。)