驚異の胃袋 イアニス・クーロス
最初に紹介するのは、「走る神」というニックネームを持つウルトラマラソン界の偉人、イアニス・クーロスです。
彼はマラソン(42.195km)を超えるウルトラマラソンというスポーツで主に1980年代から2000年代にかけて圧倒的な強さを誇り、世界で初めて24時間で300kmを超えたアスリートです。
彼が記録した24時間走の303.506kmという驚異的な数字は、平均すると1キロを4分44秒、マラソンを3時間20分のペースで走り続けたことを意味します。

そんなクーロスですが、一般に全身持久力として知られている最大酸素摂取量(VO2max)は、競技ランナーの中では特に高いわけではありません。
彼の最大酸素摂取量は63ml/kg/minと報告されており、これはマラソンのトップアスリートの平均的な数値に比べると低く、マラソンの自己記録が3時間20分のランナーの中にも同じくらいの人がいます。
つまり、クーロスの圧倒的な強さは、単なる全身持久力では説明できないのです。
では、彼の強さの秘密はどこにあるのでしょうか? その秘密を探ると、走りながら大量の食事を摂取できる胃腸の強さが浮き彫りになります。
1985年に開催されたシドニー~メルボルン(オーストラリア)960kmレースでは、彼は2位の選手に対して1日以上の差をつけ、5日5時間7分で優勝しましたが、その初日に270kmを走破しています。
これは24時間走としてもワールドクラスのパフォーマンスです。
アメリカ臨床栄養学会誌に掲載されている研究によると、クーロスはその1日だけで1万3770kcalを摂取していました。
これは、成人日本人男性の摂取エネルギーが約2100kcal(平均値)であることを踏まえると、驚異的な食事量です。
多くの人が1日で1万kcal以上の食事をしようと試みても、胃もたれや消化不良、吐き気を感じてしまうでしょう。
実際、2019年の24時間走世界選手権に参加した11名のランナーを対象とした研究によると、レース中の摂取エネルギーが約8000kcalだったことからも、クーロスの胃腸の強さが際立ちます。

彼がレース中に摂取した食事には、ギリシャの伝統菓子やチョコレート、ドライフルーツ、ナッツ、果物、さらに蜂蜜やジャムを染みこませたビスケットなど、糖質が豊富な食品が中心でした。
ランニングのペースが速いほど消費カロリーは増加し、より多くのエネルギーを糖質から得ようとします。
一方、体内には脂肪は使い切れないほど貯蔵されていますが、糖質は限られた量しか蓄積できません。
したがって、ウルトラマラソンでは、レース中に糖質を摂ることがエネルギー源の枯渇を防ぐための鍵となりますが、多くのランナーは、自分が消費するエネルギーに見合うだけの食事を摂れません。
その理由は、運動中は交感神経が活性し、胃腸の働きが低下しやすいからです。
また、運動による筋肉の活動や発生する熱の影響で、内臓への血流が減少し、消化吸収が難しくなる上、ランニングによる揺れが原因でお腹を壊しやすくなることもあります。
実際、レース中に生じる胃腸の不調は、ランナーがペースを落としたり、途中で棄権したりする主な原因とされています。
クーロスのように、レース中に大量のエネルギーを摂取できる選手は、こうした胃腸の問題を克服し、エネルギー源を補給しながら走り続けることで、優れたパフォーマンスが発揮できるのです。
そんな彼がマークした24時間走の驚異的な記録は、長年破られることがないばかりか、誰も300kmを超えるランナーが現れない状況が続きました。
しかし、リトアニアのアレクサンドル・ソロキンが2021年に309.399km、2022年には319.614km(平均4分30秒/km)を走破することで、不滅と思われたクーロスの大記録がついに破られました。
次のページでは、そのソロキン選手の強さの秘訣に迫ります。