ADHD治療に足りなかったのは“リズム”

研究チームは18〜35歳でADHDと正式に診断された若年成人94名を募集し、楽器演奏歴のあるグループと演奏経験のないグループに分けました。
楽器演奏者グループはピアノまたはギターを少なくとも5年以上継続して習熟している48名で、対照となる非演奏者グループは楽器の正式な訓練経験がない46名です。
両グループは年齢、性別、学歴、社会経済的背景をできるだけ揃え、さらに調査期間中は誰もADHDの薬を服用していない状態としました。
これにより、薬や環境要因ではなく純粋に楽器経験の差が認知機能に表れるかどうかを比較できるよう配慮しています。
全ての参加者は一連の標準化された認知テストを受け、そのスコアで両グループを比較しました。
テストの内容は多岐にわたり、主なものとして次のような項目が含まれます:数字と記号を対応させできるだけ速く書き込む処理速度・注意力テスト(WAIS符号テストに相当)、画面上のシンボルパターンを探す視覚的な注意力テスト、数字の列を記憶して順番どおりまた逆順で復唱する記憶力テスト(数唱)、課題のルールを次々と切り替えて解く柔軟性・マルチタスク能力テスト、そして特定の刺激にだけ反応し他では反応を抑制する持続的注意/衝動抑制テスト(CPT:Continuous Performance Test)などです。
これらにより、注意の持続や処理スピード、作業記憶、認知の柔軟性、衝動の制御といったADHDで課題となりやすい様々な認知機能を測定しました。
結果は明快でした。
ほぼあらゆる指標で、楽器演奏者グループが非演奏者グループを上回ったのです。
まず情報処理速度と視覚的な注意力を測る符号書き取りや記号探しのテストでは、演奏者の方が有意に高得点をマークしました。
これは情報を素早く正確に処理する力や視覚注意の能力が演奏者のほうが優れていたことを示唆します。
また記憶力を調べる数唱(順唱・逆唱)でも演奏者が非演奏者を上回り、ワーキングメモリ(作業記憶)や聴覚的な記憶保持力の強さがうかがえました。
これらの傾向は、これまで一般集団で音楽トレーニングが記憶システムや処理効率を高めるとされた先行研究とも一致しています。
さらに認知の柔軟性を測る課題切り替えテストでは興味深い差異が見られました。
最も難易度の高い切り替え課題において、演奏者は非演奏者より反応時間がわずかに遅れたものの、その代わりエラーが少なく反応のブレも小さいという結果だったのです。
一見「遅い」のは悪いことのようですが、これは慎重で落ち着いた対処を示しており、衝動性が高くミスが出やすいADHDではむしろ望ましい戦略と考えられます。
実際、演奏者グループは素早さよりも正確さを優先する熟考型のアプローチで課題に取り組んでいたと解釈できます。
ADHDの中核症状である衝動性の高さを抑え、ミスを減らすことに成功していたわけです。
衝動性という点では、持続注意・抑制のテスト(CPT)でも顕著な違いが確認されました。
演奏者グループは、反応してはいけない場面でつい反応してしまう「コミッションエラー」の数が非演奏者より大幅に少なかったのです。
このエラーは抑制力の弱さ(衝動的にボタンを押してしまう)を反映しますから、演奏者は非演奏者に比べ衝動を抑える力(抑制機能)が高いことを意味します。
一方で、注意を持続する能力そのもの(決められた刺激に反応し続ける集中力)についてはグループ間の差は小さく、統計的に有意といえるほどではありませんでした。
つまり音楽経験者では特に情報処理や記憶、そして衝動制御といった領域で顕著な強みが示され、一方で持続的な注意力についてはわずかな改善傾向こそあれ同程度だったと言えます。
総合すると、楽器演奏グループはADHDで弱点となりがちな広範な認知スキル(注意配分、ワーキングメモリ、情報処理速度、認知の切り替え・抑制など)において優位に立っていました。
これは「楽器の練習という経験が、ADHD当事者の脳の認知機能を底上げしている可能性」を示唆するものです。
特筆すべきは、参加者の中には17歳を過ぎてから楽器を始めた人もいた点です。
幼少期から英才教育を受けなくとも、青年期・成人期からの音楽訓練であっても、効果が見込める可能性があるという希望を与えてくれます。