【まとめ】人工的に設計された生命「Syn57」は世界をどう変えるか?

今回の研究によって、「生命が使う遺伝暗号(コドン)は私たちが考えていた以上に自由に書き換え可能であること」が初めて明確に示されました。
これまで、生命の遺伝暗号は64種類のコドンがあり、それらが20種類のアミノ酸を指定することでタンパク質が作られていることが知られていました。
そして、もしこの遺伝暗号から一つでもコドンを取り除けば、生命活動に致命的な影響を与えると長い間考えられてきました。
なぜなら、遺伝暗号は地球上で数十億年もの進化の中で培われてきたものであり、それほど重要なコードを大きく変更することは生命にとって不可能に近い挑戦だと思われていたからです。
ところが、今回の実験で科学者たちは、なんと7種類ものコドン(これは全体の約1割に相当します)を一気に削除した遺伝暗号を持つ人工大腸菌「Syn57」を作り出すことに成功しました。
この人工細菌は遺伝情報を大きく変更したにもかかわらず、実際に生命活動を続け、細胞分裂によって子孫を残すこともできました。
つまり、私たちが想像していたよりも生命はずっと柔軟で、遺伝暗号の一部を大胆に取り除いても、生きていくための基本的な機能は維持できることが分かったのです。
この結果を理解するために、日本語の文章で例えてみましょう。
似たような意味を持つあらゆる単語を圧縮して統一すると効率が悪く、読みにくくなりますが、それでも意味が通じる文章を書くことは可能です。
同じように、今回の実験で人工大腸菌のDNAからいくつかのコドンを削除したことで、細菌は以前よりも少し「読みづらい」状態になりました。
そのため細菌の成長速度が遅くなりましたが、生命活動自体はしっかり維持されました。
つまり生命の遺伝暗号は、多少の非効率さを許容できる余裕があったということです。
では、そもそもなぜ自然の進化は、このような一見非効率な「冗長な遺伝コード」を維持してきたのでしょうか。
研究者たちは、コドンがいくつも重複していることで、タンパク質を作る速度を微妙に調節したり、あるいは突然変異が起きても致命的なダメージを受けない安全策として働いている可能性を指摘しています。
遺伝子には「タンパク質の作り方」だけでなく、「どのタイミングでどのくらい作るか」という調節情報も含まれています。
複数のコドンを使い分けることで、タンパク質合成の速度や精度を微妙に調整しています。
これを1つのコドンに統一してしまうと、タンパク質を作るスピードや量の微調整が難しくなり、細胞にとって負担になる可能性があります。
また複数のコドンで同じアミノ酸を指定しているおかげで、DNAにちょっとしたミス(突然変異)が起こっても、被ったコドンのお陰で同じアミノ酸(材料)が指定されれば、タンパク質が変化しないで済むことがあります。
逆にコドンを1つのみに絞ってしまうと、わずかなミスでも致命的な問題が起きる可能性が高くなり、生物の生存率が大幅に下がる恐れがあります。
つまり、生命は冗長な遺伝コードを「無駄」としてではなく、「安全装置」として利用してきた可能性があるのです。
そのため、冗長性を削減した細菌は成長速度がやや低下しましたが、それでもこの実験は生命が遺伝コードの単純化に十分耐えられることを証明しました。
さらに今回の研究の重要なポイントは、遺伝暗号を圧縮することが「ウイルスに感染されにくい細菌」を作り出す新たな道を開いたことです。
細菌に感染するウイルスは通常、細菌が持つ遺伝暗号を使って自分自身を複製します。
今回のように、細菌側でウイルスが使うコドンをあらかじめ削除しておくと、ウイルスは正常にタンパク質を作れなくなり、理論的には細胞内で増殖できません。
つまりコドンの削減は細菌にとって「遺伝的ファイアウォール」のような働きをするのです。
もちろん、まだ完全なウイルス耐性を実証したわけではありません。
過去の研究でコドンを減らした細菌でも、ウイルスが別の方法で細菌に感染した例が報告されています。
しかし研究チームは、将来的にさらに高度な技術を組み合わせることで、ほぼ完璧なウイルス耐性細菌を作り出せる可能性があると考えています。
例えば、今回空いたコドンのスペースに「自然界にない新たなアミノ酸」を人工的に割り当てれば、ウイルスが簡単には対応できない、より強固な耐性が得られる可能性があります。
実際、別の研究グループは削減されたコドンをあえて別のアミノ酸に置き換えて、ウイルスがタンパク質を正しく作れないようにする新しい方法も報告しています。
こうした複数の戦略を組み合わせれば、「極めてウイルスに感染されにくい細菌」が実用化される日が近づいています。
【コラム】ウイルス感染に完全耐性を持つ細菌は爆発的に増加したりしないのか?
今回の研究で作られた人工細菌「Syn57」は、遺伝暗号を大幅に削減することで、理論上、ほぼすべてのウイルスに対する強力な耐性を持つことが期待されています。しかし、このように「ウイルスに感染されない細菌」を作り出すことには、倫理的・生態学的な懸念やリスクも議論されています。まず懸念されるのが、ウイルスに感染されない細菌が環境中で「爆発的に増殖してしまうのではないか?」という点です。細菌とそれを攻撃するウイルスは、生態系の中で自然にバランスを取りながら共存しています。ウイルスが細菌の個体数を一定程度抑制することで、ある種の細菌が過剰に増殖するのを防ぎ、生態系の多様性を保つ役割を果たしています。ところが、もし完全にウイルス耐性を持つ細菌が自然界に放出された場合、その細菌を抑制するメカニズムが一つ失われることになり、細菌が異常に繁殖して生態系のバランスが崩れる可能性があります。実際、今回の研究を行った英国MRC分子生物学研究所(MRC-LMB)をはじめ、世界各地の研究機関の科学者たちは、このリスクを真剣に受け止めています。プレスリリースなどで研究チームは、「ウイルス耐性細菌が環境に与える影響を徹底的に調査・評価する必要がある」と明言しています。ただ今回の研究のような人工生物が現状すぐに環境中で爆発的に増殖する可能性は極めて低いと考えられています。先に述べたように実際に作り出された人工細菌は自然な大腸菌よりも増殖速度が遅く、環境中では生存競争に負けやすい可能性が高いと報告しています。つまり、人工的に変更された遺伝暗号を持つことは、細菌の生存にむしろ「負担」となり、環境中で爆発的に増殖するリスクは現時点ではそれほど高くないと考えられているのです。
さらに今回の研究成果は、バイオテクノロジーや医学の分野でも大きな可能性を秘めています。
たとえば、医薬品を作る工場では細菌に感染するウイルス(ファージ)の汚染で製造ラインが止まってしまうことがありますが、今回の技術で作られた耐性細菌を使えばそのリスクを大きく減らせます。
また遺伝暗号を独自のものに書き換えた細菌は、環境中に万が一放出されても周囲の自然な細菌と遺伝情報をやり取りできないため、遺伝子汚染のリスクが小さくなります。
これは汚染物質の分解や難治性疾患の治療など、様々な場面で安全に人工的な生物を活用するための重要な基盤となります。
最後に、本研究の最も重要な意義は「人工的な遺伝子設計の時代を本格的に切り開いた」ことにあります。
自然の進化では決して到達できなかった生命の新たな可能性を、人間がゼロからデザインし、実際に生きた細菌として作り出すことが現実になったのです。
将来的には、今回作成したSyn57を土台に、これまで自然界になかった新しいタンパク質や素材を作り出したり、新しい医療技術の開発に利用したりすることが可能になります。
もちろん倫理的・安全面の議論はこれからも必要ですが、今回の研究は私たちが生命の遺伝暗号を書き換え、新たな可能性を持つ人工生物を自在に設計する未来に向けた、記念すべき大きな一歩と言えるでしょう。
また、コドンを削除することにはもう一つ、大きな利点があります。
それは「削除によって空いたスペースを新たな目的に使える」ということです。
今まで余分だったコドンを「人工的なアミノ酸」を指定するためのコードとして再利用できるのです。
こうすることで、自然界には存在しない新しいタンパク質やポリマー素材を人工的に作れるようになります。
例えば、薬や化粧品の原料となる複雑なタンパク質を、自然界の20種類のアミノ酸だけで作るのは難しい場合がありますが、人工的なアミノ酸を組み込めれば、全く新しい機能を持つ分子を生み出せます。
さらに人工的な遺伝暗号を使う生物は、自然界の生物と遺伝情報を交換することが極めて難しくなります。
つまり、万が一人工生物が環境中に漏れ出しても、周囲の生態系に遺伝子が広がる危険性(遺伝子汚染)を防ぐことが可能になるのです。
このように、人工的に再設計された遺伝暗号は、医薬品開発やバイオ素材製造といった産業利用だけでなく、環境安全性という点でも非常に大きなメリットがあります。
しかし、そのような応用を実現する前に、そもそも生命がどの程度までコドンを減らすことに耐えられるのかを確かめることが重要です。
本研究の最大の目的は、これまでの3種類よりもさらに多くのコドンを削減しても、本当に生命活動が維持できるのかを探ることだったのです。
ウイルスさんも生き物からすれば外部から遺伝子持ってきてくれる大事なお客さんなのにそんなことしちゃうんですか?