老いた脳に希望を与える鍵分子
今回の研究は、FTL1というタンパク質が脳の老化を進める重要な原因であることを明らかにした、非常に注目すべき成果です。
これまで脳が老化する仕組みについては、「年を取ると自然に脳が衰える」とぼんやりとしたイメージしかありませんでしたが、FTL1という具体的な「老化スイッチ」を特定したことで、老化を科学的にコントロールできる可能性が浮かび上がってきたのです。
実際にこの研究では、FTL1の量を抑えるだけで、老齢マウスの脳機能が改善され、記憶力やシナプスの活動が回復するという非常に明確な結果が示されています。
これは単に脳の老化を遅らせるだけでなく、失われかけていた機能を部分的に取り戻すことができることを意味しています。
FTL1はもともと細胞の中で鉄を安全に蓄えるために必要な役割を果たしており、鉄は私たちの体にとって絶対に欠かせない重要な元素です。
しかし、鉄が過剰になると、金属が錆びるように細胞にダメージを与えてしまうことがあります。
これが深刻になると、「フェロトーシス」という細胞の死につながることも知られていますが、今回のマウス実験では、FTL1を増やしたり減らしたりしても、こうした深刻なダメージや細胞死が起きる兆候はありませんでした。
つまり、FTL1の変化は細胞が死ぬような病的な老化とは違い、神経細胞が生きたまま働きが弱くなる「通常の老化」に近いことが示唆されています。
このことから、FTL1が脳の老化に与える影響は、比較的安全な範囲で制御できる可能性があり、慎重に検証を続けていく価値があると考えられます。
このように老化そのものに根本的に働きかけて脳機能を回復できるという点が、従来の研究と比較して大きな進歩だと言えるでしょう。
もう一つ注目すべきポイントとして、FTL1が脳の老化を進める理由には、神経細胞のエネルギー不足が深く関係していることが挙げられます。
エネルギー代謝と老化との関連性については近年特に注目されており、脳が老化すると神経細胞がエネルギーを十分に作れなくなってしまうことが指摘されています。
今回の研究では、FTL1が多くなると神経細胞のエネルギー産生が低下し、逆に「NADH」というエネルギーの産生を助ける物質を投与すると、その影響を和らげることができました。
実は、動物を使ったこれまでの研究でも、NADHやその関連物質を使って脳のエネルギー産生を助けると、老化による認知機能の低下を改善できる可能性が指摘されています。
コラム:NADHってなに?脳のガソリン添加剤?
私たちの体は、食べたごはんやパン、呼吸で取り入れた酸素などを材料にして、細胞の中でエネルギーを作り出しています。このエネルギーは「ATP(アデノシン三リン酸)」という物質の形で保存されていて、体を動かしたり、脳で考えたりするために使われています。でも、ATPを作るためには、その前に「エネルギーのもと」になる補助的な物質が必要です。そこで登場するのが、NADH(ナディーエイチ)という物質です。NADHは、ビタミンB₃の仲間から作られる「補酵素(ほこうそ)」で、エネルギー工場であるミトコンドリアに「燃料を渡す役目」をしています。いわば、細胞内でのガソリンの添加剤のような存在です。このNADHがうまく働いていると、細胞はたくさんのATPを作り出し、元気よく活動できます。ところが、年を取ったり病気になったりすると、このNADHの働きが弱まってしまい、エネルギー不足で細胞の元気がなくなってしまうのです。今回の研究では、老化で弱った神経細胞にNADHを与えることで、もう一度エネルギーをしっかり作れるようにして、脳の働きを改善することができました。つまり、NADHは老化した脳に再び活力を与える「小さなエネルギー補助剤」として期待されているのです。
今回のFTL1の研究は、こうしたエネルギー代謝と脳の老化の関係をさらに裏付ける結果であり、エネルギー不足を解消するアプローチが老化への新しい対策になることを示しています。
一方で、FTL1というタンパク質自体は、実は人間においてもまったく無関係ではありません。
FTL1遺伝子に変異があると、「神経フェリチン症」と呼ばれる遺伝性の神経疾患が起こり、中高年以降に運動機能や認知機能に障害が現れることが知られています。
また、アルツハイマー病患者の脳脊髄液を調べると、FTL1が含まれるフェリチンというタンパク質の量が多いほど、症状が早く進行するという報告もあります。
これらのことから、FTL1や脳内の鉄代謝の異常は、老化だけでなく認知症などの病気にも深く関わっている可能性があります。
つまり、今回マウスで得られた研究成果は、私たち人間の脳老化や病気の理解にも役立つ重要な手がかりになるかもしれないのです。
最後に、この研究成果が将来どのような影響を持つかを考えてみましょう。
現代社会は超高齢化が進み、記憶力の低下や認知症といった老化に関わる問題がますます深刻になっています。
研究チームを率いたビジェーダ博士は、「私たちは、加齢による最悪の影響を和らげる可能性をますます目にするようになりました。老化の生物学に取り組む今は希望に満ちた時代です」と語っています。
もちろん、FTL1をヒトでコントロールするためにはまだ多くの研究が必要です。
この研究はマウスを対象とした基礎研究であり、人間の脳でもまったく同じことが起きるかどうかは慎重に検証していく必要があります。
それでもこのような具体的な老化因子を特定したことは、将来の新しい治療法につながる大きな一歩と言えるでしょう。
老化した脳も、適切なスイッチを操作すれば再び若々しい働きを取り戻せる──この研究は、そうした未来を実現するための希望となるかもしれません。
NADHを増やす方が安全そうな雰囲気ですね。