無重力が及ぼす心臓への影響
現在は引退している宇宙飛行士スコット・ケリー氏は、国際宇宙ステーション(ISS)の第43次長期滞在フライトエンジニアとして、2015年3月27日から2016年3月1日までの340日間を宇宙で過ごしました。
彼は宇宙に滞在中、無重力による筋力低下を防ぐためにISSに用意されたマシーンで週6日間、1日に1~2時間程度エアロバイク、トレッドミル、レジスタンストレーニングなどによる適度な運動を続けてきました。
しかし、地上に戻って検査をしたところ、彼の心臓は萎縮しているのが確認されたのです。
ケリー氏の心臓は機能的に異常はなかったものの、左心室が週に平均0.74グラムの質量を失っていたのです。
きちんと運動していたにもかかわらず心臓が萎縮してしまうという問題については、宇宙飛行士以外でも確認されている事例があります。
それが、2018年に太平洋を泳いで横断するという挑戦を行った51歳の遠泳者ブノワ・ルコント氏です。
ルコント氏は、日本の千葉県銚子からスタートして、泳いでサンフランシスコを目指しました。
ルコント氏の挑戦は、悪天候や同行した帆船の損傷などにより、予定された全行程の3分の1を終えたところで断念することになりました。
しかし、彼は結果的に159日間で約2800キロメートル以上の距離を泳ぎ、計算すると1日に平均6時間近くを泳いでいたのです。
ところが、ルコント氏はこの遠泳のあと体の影響を調査したところ、宇宙飛行士のケリー氏と同様に心臓左心室が萎縮していたことがわかりました。
彼の場合、失った心臓の筋肉量は週平均0.72グラムでした。
この2人のケースに共通して見られるのは、心臓の働きに対する重力の影響がいかに大きいかということです。
通常血流は重力によって足の方へと引っ張られています。心臓はこの重力に逆らって血液の流れを維持するために、力強い収縮を繰り返します。
無重力の宇宙では当然足の方へと血が引っ張られることがないため、心臓は地上よりも力強く働く必要がなくなります。
そして長期間の遠泳の場合も、水中では水圧が重力の影響を相殺するため、無重力の宇宙と似た状況を作り出します。
毎日6時間の水泳を159日間も続けたルコント氏も、やはり足に血流が引っ張られるという重力の作用が失われていたために、心臓はあまり働く必要がなかったのです。
こうして、2人の宇宙飛行士と遠泳者は、どちらも心臓の筋肉量が低下して、縮んでしまうという症状が現れたのです。
今回の研究を報告しているテキサス大学サウスウエスタインの内科教授であるペンジャミン・レヴァイン博士は、宇宙飛行士のケリーが1~2時間程度の運動をしている間、ルコント氏が1日に6時間も泳ぎ続けていたことを考えると、宇宙飛行士より水泳者の心臓質量が減少したことに驚いたと話しています。
このことから言えるのは、遠泳は高強度の運動ではないということと、軽強度の運動では無重力の作用による心臓の萎縮を食い止めることはできないという事実です。
逆に言えば、重力に逆らって血流を上向きに押し上げる心臓の働きは、この程度の運動ではカバーしきれないほどの大きな負荷だったと言えるのです。
心臓は他の筋肉と同様に、自身に掛かる負荷に反応して変化します。あまり負荷がかからなければ、運動を怠った筋肉と同様に萎縮していまします。
今回の結果が、より一般的に人々にどう影響するかを理解するためには、さらに研究が必要になります。
現在確認されているところでは、ケリー氏やルコント氏の心臓は、機能的には問題を起こしていません。
ただ、地上では心臓が思いの外、一生懸命働いてくれていたようです。
重力は普段意識することもないくらい、私たちにとっては当たり前の存在です。しかしその分、無重力が及ぼす影響は、想像以上に大きいのかもしれません。