必要なときに精子を取り出して受精できる
研究で調べられたのはキイロシリアゲアリ(C. osakensis)とハヤシケアリ(Lasius hayashi)という日本で一般的に見られるアリで、女王アリを中心とした社会性を持ちます。
こうしたアリの女王は普通、羽化後の限られた期間にのみオスと交尾して、一生分の精子を受け取ります。
オスは交尾後にすぐ死んでしまいますが、女王アリはオスから貰った精子を「受精嚢(じゅせいのう)」と呼ばれる腹部の貯蔵器官に納めて、命の続くかぎり保存できます。
そして産卵時に必要な精子のみを取り出して、一生涯にわたり子供を産み続けるのです。
また女王アリは産み分けができ、精子を使った受精卵であれば「メス」が、精子を使わない無精卵であれば「オス」が生まれます。
ただほとんどはメスが生まれ、彼女らが働きアリや兵隊アリとして活動します。
女王アリは極めて長寿であることが知られ、多くの種で平均10年以上、記録では29年も生きた女王もいるという。
その間はずっと精子を常温の生きた状態で保存することができるのです。
通常、動物のオスの精子は交尾後の数時間〜数日内に著しく劣化し、受精能力も低下していきます。
そのため、女王アリの貯蔵能力は異例中の異例なのですが、それを可能にするメカニズムはほぼ何も分かっていませんでした。
無酸素状態が精子を長期生存させていた!
これまでの研究で、受精嚢内には精子がギッチリ詰まっており、すべて不動化した状態で保存されていることが分かっています。
しかし精子はすべて死んでおらず、袋から取り出されると再び活発に動き出すのです。
これらは受精嚢内に精子の時を止める何らかの仕組みがあることを意味します。
また精子が動き回っていると、物理的な損傷や細胞に悪影響を及ぼす活性酸素を発生させるリスクがあります。
なので精子の不動化は、精子を長期間生存させるために必要なプロセスでもあるのです。
研究チームは不動化の仕組みを探るべく、受精嚢を詳しく調べたところ、袋の中はほぼ無酸素状態になっていることを突き止めました。
女王アリの体内の酸素濃度を調べると、腹部や背中の体液と比べて、受精嚢内は酸素濃度が著しく低いことが特定されています。
そこでチームは、人工的に無酸素状態の液体を作り、その中に女王アリから取り出した精子を注入。
すると精子が不動化したことから、受精嚢内の無酸素環境が不動化を引き起こしていることが確認されました。
精子は酸素がない状態では呼吸ができません。
つまり、運動するための十分なエネルギーが作れないので不動化するしかなかったのです。
チームは最後に、人工的に作り出した無酸素環境で、精子が長期間生存するかどうかを検証。
その結果、有酸素環境と比べて精子は高い生存率を保っていることが確認できました。
このことは、受精嚢内に作られたほぼ無酸素環境が、長期間の精子貯蔵を支える大きな要因になっていることを示します。
その一方で、無酸素環境では、有酸素環境よりも精子の生存率が高くなったものの、時間経過とともに生存率が低くなっていました。
これでは10年以上も精子を保存しておくことはできません。
つまり、無酸素環境の他に精子を長期生存させる要因があることを示唆します。
その点は今後の研究課題と残されますが、今回の新たな知見は医療分野に活かせる可能性があります。
たとえば、不妊治療の現場では今、ヒトの精子は液体窒素により凍結保存されるのが普通です。
しかし女王アリは液体窒素で冷凍せずとも常温で長期間精子を保存できます。
その貯蔵メカニズムを完全に解明できれば、近い将来、ヒトの精子も低エネルギーかつ高品質で保存できるようになるかもしれません。