3:なぜストーカー対応で怠慢が起こるのか?

それでは、なぜこのような「怠慢」と呼ばれる対応の不備が起こってしまうのでしょうか。
背景には、警察組織の構造的な課題や制度上の限界、そして人々の認識の問題が複雑に絡み合っています。
第一に指摘されるのは、警察や司法関係者の認識不足や偏見です。
ストーカー被害は比較的新しいタイプの犯罪であり、伝統的な暴力犯罪に比べて理解が追いついていない面があります。
研究者の指摘によれば、警察官の中には「明確な身体的暴力が伴わない限り深刻ではない」「ストーカーは赤の他人からの執拗なつきまといで、元恋人間のトラブルは私人間のもめ事」という誤った思い込みを持つ者もいるといいます。
こうした認識の偏りから、被害者の訴えが「痴話喧嘩」や「男女間のもつれ」に過ぎないと軽んじられたり、被害者が過敏に騒いでいるだけだと受け取られたりしてしまうのです。
実際、イギリス・ウェールズの調査では「警察は加害者が物理的な暴力に及んで初めて本格的に介入する傾向がある」と指摘されています。
実際、警察庁はストーカー事案を「人身安全関連事案」として位置付け、被害者の生命身体に危険が及ぶ恐れがあるものと認識するよう通達しています。
しかしそれが末端の警察官にまで浸透しきっていない場合、危険性の高い兆候を見逃すことにつながります。
また、被害者の心理状態や加害者の異常な執着心に対する専門的知識の不足もあります。ストーカー加害者にはしばしば強い執着や支配欲求があり、警察からの警告程度では行動が止まらないケースも少なくないと報告されています。
にもかかわらず警察官が「警告したからもう大丈夫だろう」と安易に考えてしまうと、実際には陰で着々と犯行準備が進んでいるといった事態にもなりかねません。
対応にあたる警察官自身へのカウンセリングや心理学的研修、専門機関との連携強化が不可欠であると指摘されています。
第二に、警察組織内の制度・リソースの問題も無視できません。
ストーカー事案の相談件数は日本で年間2万件前後と高止まりしており、一方で各警察署が抱える人員や専門知識には限りがあります。
専門の「ストーカー対策部署」やストーキング行為のリスク評価ツールが十分整備されていないと、対応はどうしても後手に回りがちです。
「警察は事件が起こってからしか動かない」と揶揄されるように、現在の制度では実際に法に触れる事態にならなければ強制的な介入(逮捕や捜索など)が難しい側面もあります。
日本のストーカー規制法は2000年の施行以降、2013年・2016年・2021年と改正を重ね、警告なしでも禁止命令を出せるようにする、GPS追跡行為を規制対象に加える等の強化が図られてきました。
しかし法律でどれだけ枠組みを整えても、現場でそれを適切に運用する人員と体制がなければ絵に描いた餅になってしまいます。
実際、神奈川県警ではストーカーやDVなど人身安全に関わる事案を扱う専門部署「人身安全対策課」はあるものの、各警察署には専門の「人身安全係」が置かれていないと言われます。
多くの都道府県警(警視庁や愛知県警など)では各署の生活安全課にストーカー・DV対策の専任担当者を配置しています。
しかし神奈川県警では防犯係の数名が他の業務と兼務でストーカー案件も抱える状態で、「1人で全部を回すのは無理がある」という内部の告発も明らかになりました。
専門スタッフと十分な人手を欠いた組織では、どうしても対応が後手に回り、被害者のSOSが構造的に届きにくくなってしまいます。
これは決して神奈川県警だけの問題ではなく、全国的にも人員不足は深刻です。ストーカー事案対応の最前線である生活安全部門に十分な人員と訓練を施さなければ、現場警察官の負担が大きすぎて迅速・的確な対応は困難です。
第三に、手続き面・法制度の課題です。
警察の怠慢が起きる背景には、現行法制度の限界も影響しています。ストーカー規制法は施行以来何度か改正され、EmailやSNSでのつきまとい行為やGPS追跡行為の規制強化など改善が図られてきました。
しかし法律の運用面で、被害者の申告がなければ警察は警告すら出せない仕組みや、禁止命令を出すハードルの高さなどが指摘されています。
被害者が「被害届を出すほどではない」と迷っている段階でも、本当は介入が必要なケースがあります。
現在は各都道府県警でストーカー・DVについて事前相談を受け付ける窓口も設けられており、事件化の有無にかかわらず幅広く相談を受理して未然防止に努める試みが始まっています。
京都府警ではストーカー専門のワンストップ相談センターを設置し、関係機関と連携して被害相談から加害者の再発防止措置まで切れ目なく対応するモデル事業も行われています。
こうした制度改善の動きはありますが、全国でまだ十分に機能しているとは言い難い状況です。
第四に、教育・訓練の不足も見逃せません。
前述のとおり、一部の警察官にはストーカー問題への認識不足が見られることから、研修や訓練で最新の知見を共有し、意識改革を促すことが重要です。
英国のカレッジ・オブ・ポリシングのレビューでは、警察官に対するストーキングの複雑性やダイナミクスに関する意識啓発の必要性や、各警察署にストーカー事案の専門官を配置すること、被害者支援団体との協働を強化することなどが提言されています。
裏を返せば、現状ではそうした取り組みが不十分であるからこそ被害者の満足度が低いという現実があります。
被害者が「担当の警察官が熱心で積極的に動いてくれた」「逐一進捗を教えてもらえて安心できた」と感じるケースでは満足度が高かったとの報告もあり、適切な教育を受けた警察官がいかに被害者に寄り添った対応を取れるかが鍵となります。
しかし特に日本においては、組織風土が意識改革の大きな壁になっています。
警察組織内の風土として「不祥事や問題を小さく見せようとする志向」や事なかれ主義が根強いことも否めません。
大事にしたくないあまり被害を矮小化したり、あるいは対応ミスがあっても認めたがらず隠蔽しようとする体質があると、結果として被害者の危険を後回しにしてしまいます。
桶川事件では、事件後に警察が不適切捜査を隠すため調書を改ざんするという信じ難い行為に及び、大きな批判と処分を受けました。
このように使命感を欠いた対応が繰り返されるなら、被害者は警察を信頼できず相談をためらう悪循環に陥ってしまいます。
警察には「被害者の命を守る最後の砦」としての強い責任意識が求められますが、組織の論理が優先され被害者視点が後回しになるとき、怠慢が生じる土壌となってしまうのです。