蚊が飲むだけで死ぬ血にする

夏の夜、耳元でプーンと蚊の羽音が聞こえただけで眠れなくなった経験はないでしょうか。
日本では蚊は夏の風物詩として不快な虫の代表ですが、熱帯地域の多くの国では蚊はただの不快な存在ではありません。
命にかかわる病気、マラリアを運ぶ深刻な「敵」なのです。
毎年、世界では約2億5000万人がマラリアに感染し、60万人以上が亡くなっています。
特にサハラ以南のアフリカでは、5歳未満の子どもたちが多く犠牲になっています。
マラリアを防ぐために重要なのは、蚊を人間に近づけないこと、蚊に刺されないことです。
そこで、これまで世界が取り組んできた主な対策は、殺虫剤を染み込ませた「蚊帳(かや)」や、家屋の壁に殺虫剤を吹き付ける方法でした。
こうした対策は非常に効果があり、2000年から2015年の15年間でアフリカのマラリア患者数を約81%も減少させる成果を上げました。
しかし、こうした方法には大きな落とし穴がありました。
近年、蚊が殺虫剤に対して「耐性」を持つようになったのです。
耐性とは、殺虫剤を使い続けるうちに蚊が薬に慣れてしまい、薬が効かなくなってしまうことを指します。
さらに蚊は、人間が蚊帳の中に入る夜間以外の「夕方や早朝」に活動したり、蚊帳の外にいる人を狙って「屋外」で刺したりといった新たな行動をとるようになりました。
これらの行動変化によって、今までのような殺虫剤や蚊帳だけでは、もはやマラリアを完全には防げなくなってしまったのです。
このように対策が頭打ちになってしまったため、新しい発想の方法が世界中で求められるようになってきました。
そこで科学者たちが注目したのが、「人間自身が蚊を退治する力を持つ」方法でした。
具体的には、人が薬を飲むと、その人の血が蚊にとっての毒になる仕組みです。
これは一見斬新な発想に見えますが、実は家畜やペットの世界では昔から行われている方法でした。
家畜に寄生虫駆除薬を投与すると、その薬が血液に残り、動物の血を吸った害虫を退治できることが知られていたのです。
この発想を人間に応用できる可能性がある薬として、科学者が注目したのが「イベルメクチン」です。
イベルメクチンは1970年代に日本の大村智博士が発見した薬で、オンコセルカ症(別名:河川盲目症)やリンパ系フィラリア症といった熱帯病の特効薬として知られています。
1988年以降、製薬会社の無償提供プログラムを通じて世界中で累計46億回以上も投与されており、その安全性と信頼性はすでに高く評価されていました。
また近年、この薬には蚊を殺す効果もあることが科学的に確認されていました。
人がイベルメクチンを飲むと血液中に薬剤が残り、それを吸血した蚊が死んでしまうという仕組みです。
これまでの研究では、薬剤が蚊を殺せること自体は確かめられていましたが、大規模に人間に投与した場合に、本当にマラリア感染を減らす効果が得られるのか、そして健康への悪影響がないかについては十分に検証されていませんでした。
そこで研究チームは、実際に多くの人々に薬を投与することで、この薬が本当にマラリア感染を有意に減らし、安全に使えるかどうかを調べることにしたのです。
しかし、実際に人間に薬を飲ませる実験をするときには、多くのことを考えなくてはなりません。
例えば、「薬を飲む」という行為自体が、何らかの体調変化を起こす可能性があります。
もし比較のための対照群が「何の薬も飲まない」状態だと、結果の違いが「薬を飲むこと自体の影響」なのか、「イベルメクチンという薬特有の効果」なのかがわからなくなってしまいます。
そこで研究チームは、比較対象として「アルベンダゾール」という寄生虫駆除薬を使いました。
アルベンダゾールは、イベルメクチンと同じく寄生虫駆除に効果がありますが、蚊に対する効果はありません。
こうすることで、「薬を飲んだ」という条件を揃えた上で、「イベルメクチンに特有の蚊への効果」を明確に比較できるように工夫したのです。
こうして大規模な試験がケニアで行われることになりましたが、このような方法で本当にマラリア感染を効果的に抑えることができるのでしょうか?
また、多くの人々に薬を配ることによって、安全性や健康への悪影響など、思わぬ問題が起こったりはしないのでしょうか?
そしてその効果は従来の方法を超えるほどのものでしょうか?