コペンハーゲン学派の開祖 ニールス・ボーアの登場
量子力学の歴史を語る上で欠かすことのできない人物がニールス・ボーアです。
彼はこの歴史物語の最後まで、アインシュタインと共に登場し続けることになります。
当時のボーアはJ・J・トムソンの研究室に所属していましたが、知り合いにラザフォードを紹介され、その人柄に惚れ込んでラザフォードの研究室へと移籍してきます。
ボーアは、ラザフォードの考えた原子核モデルはかなり現実に近いと考えていました。
そして、原子核に電子が落ちないようにするためにはどうしたら良いかを考えはじめます。
そこでボーアが採用したのが、電子の軌道の量子化でした。
電子は自由にどんな軌道でも回れるわけではなく、決まったエネルギー準位の軌道だけを回っていて、その軌道にあるときはエネルギー放射を行わないと仮定したのです。
これは実際はどうであれ、まずは実験結果と一致した法則を作り出すという、プランクと同様の手法でした。
こうした理論を模索する中で、ボーアはいくつかの重要な研究に出会います。
その1つが、当時物理学者たちの間で謎となっていた元素の線スペクトルの問題でした。
化学の分野に、金属を燃やしたとき元素に応じて炎の色が変わる炎色反応という現象があります。
これは昔から知られているものでしたが、19世紀になると、この炎が放つ光のスペクトルに特定の線が入るということが知られるようになります。
元素によってこの線のパターンは決まっていました。いわば元素ごとに持つ光の指紋だったのです。
そのため線スペクトルは、現代では天文学において、はるか遠くの天体の構成元素を知るために利用されています。
しかし当時は謎の現象でした。
そんな中、数学者のヨハン・バルマーは実験データからこの線スペクトルの出現する波長を予測する方程式を見つけ出します。
ただ、線スペクトルが現れる理由はわかっておらず、なぜバルマーの式が線スペクトルを予測できるのか誰にもわかりませんでした。
しかし、バルマーの式を見たボーアは、これが電子の軌道に関係しているということに気づくのです。
そして、線スペクトルの正体は「原子内で電子が軌道をジャンプした際に放射したエネルギー」なのだと考えました。
原子内で決まったエネルギー量の軌道を回る電子は、炎などで外部から熱エネルギーを受けた場合、エネルギー量の高い軌道へ移動します。
しかし、電子はすぐにそのエネルギーを放出して安定した最低エネルギー状態の軌道へ戻ろうとします。
そのため炎色反応の光では、この放出されたエネルギーが、光の筋となって線スペクトルに現れるのです。
ボーアの計算したところ、これは軌道ごとのエネルギー差の予想と見事に一致しました。
そして、このとき放出されるエネルギーも、やはりプランクが発見したhνという量子で導くことができたのです。
ラザフォードの原子モデルには電子が原子核へなぜ落ちないのか? という問題がありました。
しかしそれは、ボーアによって、電子には安定軌道があると証明され解決します。
この原子モデルの確立というボーアの仕事は世界で高く評価され、彼はその功績により祖国デンマークのコペンハーゲンに自らの研究所を設立します。
それは後に、量子力学研究の重要拠点となり、世の研究者たちから「コペンハーゲン学派」と呼ばれることになるのです。
研究所設立の翌年、1922年、ボーアは原子物理学におけるこれらの功績によってノーベル物理学賞を受賞します。
量子力学の世界は、こうして少しずつ開拓されていきました。
しかし、この時点では、まだプランク定数で表現される量子が一体なんなのか? 単なる計算の都合なのか、誰も説明することは出来ませんでした。
ボーア自身もなぜ原子内の電子にはエネルギー放射を行わない安定軌道があるのか? その理由を説明することは出来ませんでした。
実験結果と一致する理論(方程式)が少しずつ、発見されていくだけだったのです。