第10位 エスター・レーダーバーグ「ラムダファージ」
エスター・レーダーバーグ(1922-2006)は、アメリカの微生物学者であり、意志の強い野心的な女性でした。
当時は、女性が家の外で仕事をするのは珍しいことと考えられていました。
ましてや、男性が主流となっていた科学分野では尚更です。
レーダーバーグは、家族や友人、教授から科学の道に進むのはやめるよう説得されましたが、頑として聞きませんでした。
結局、彼女は夫の助けもあり、スタンフォード大学の微生物学の研究室に入ることができました。
そこで彼女の才能はまたたく間に開花します。
最初の大きな功績は「ラムダファージ(λファージ)」の単離です。
ラムダファージとは、大腸菌に感染するスティロウイルス科のバクテリオファージのこと。
バクテリアに侵入し、そのDNA内に住むことができる生物として初めて認められたものです。
また、一次ペトリ皿の微生物コロニーを二次ペトリ皿に再現する「レプリカ平板法」も彼女と夫により発見されたものです。
しかし、その功績でノーベル賞を受賞したのは夫のジョシュア・レーダーバーグだけであり、彼女はまったく評価されませんでした。
第9位 ジョスリン・ベル・バーネル「パルサー」
イギリスの天体物理学者であるジョスリン・ベル・バーネル(1943-)は、24歳の若さで在籍していたケンブリッジ大学を代表する科学者でした。
2年間ノンストップで研究を続けてきた彼女にとって、最大のブレークスルーが1967年に訪れます。
施設内の電波望遠鏡を担当していた彼女は、電波による奇妙なマークを発見したのです。
それは今までに見たことのないもので、パルス状のコンパクトな天体が自転し、両極から放射性物質を放出していました。
これが歴史的なパルサーの発見です。
彼女は当時、アントニー・ヒューイッシュという男性研究者の下で作業をしていました。
そして、彼女の功績にもかかわらず、ノーベル賞は1974年にヒューイッシュに授与されてしまったのです。
第8位 6人の女性プログラマー「エニアック」
第二次世界大戦が始まると、アメリカ陸軍の技術部門では、募集できる男性がいなくなり、最終的な手段として女性の募集を始めました。
結果、キャスリン・マクナルティ、フランシス・ビラス、ベティ・ジーン・ジェニングス、ルース・リヒターマン、エリザベス・スナイダー、マーリン・ウェスコフの6名の女性が選抜されています。
彼女らは、戦争に役立つとされていた大型の電子計算機「ENIAC(エニアック、Electronic Numerical Integrator and Computer)」のオペレーターを担当することになりました。
機械の不具合の点検や修復、処理能力を上げるためのプログラミング、高度な計算を行うための配線など、エニアックに関わるあらゆる業務をこなしています。
ところが、エニアックは、他の3人の男性技術者による技術発明であるかのように報道され、6名の女性の努力は完全に無視されてしまったのです。
第7位 ネティー・スティーブンス「性染色体」
ネティー・マリア・スティーブンス(1861-1912)は、20世紀を代表するアメリカの遺伝学者の一人です。
彼女はスタンフォード大学を卒業後、35歳という比較的遅い年齢で科学の世界に足を踏み入れました。
生物の胚の性別がどのように決まるかについては、それ以前にもさまざまな説が発表されてきました。
しかし彼女は、オスとメスのミールワームを調べる中で、20番目の染色体の大きさが違うことに気づきます。
彼女は、この違いが胚の性別を決定するという仮説を立て、それが後に真実であることを証明しました。
これが「性染色体」を発見した歴史的瞬間でした。
ところが、この発見は彼女の功績にはならず、彼女の師匠であり同僚でもあったE.B.ウィルソンのものとなっています。
第6位 メアリー・アンダーソン「ワイパー」
メアリー・エリザベス・アンダーソン(1866-1953)は、アメリカの不動産開発者です。
1902年、冬のニューヨークを訪れたメアリーは、車の運転手が頻繁に車から降りてフロントガラスの雪を拭いているのを目にしました。
「これは非常に面倒な作業だ」と思い、彼女はフロントガラスの雪を拭くための装置の開発を始めます。
何度か失敗した後、ついに、ボンネットの上に設置できるブレード状ワイパーの発明に成功しました。
このワイパーは、前席の人が手動で操作できます。
その後、特許を取得したのですが、この製品は便利ではないということで、どこのメーカーも販売してくれませんでした。
数年後、特許は切れ、ロバート・カーンズという発明家が別のワイパーを作りました。
今日、ワイパーを最初に作ったのがメアリーであることを知る人はほとんどいません。
第5位 エリザベス・マギー「モノポリー」
1903年、エリザベス・マギー(1866-1948)は、「The Landlords Game (地主ゲーム)」という名の複雑なボードゲームを考案しました。
このゲームは、アメリカの政治経済学者、ヘンリー・ジョージの単一税論(土地単税)を一般人に正しく理解してもらうためのものでした。
マギーは1904年にゲームの特許を取得しましたが、「ルールが複雑すぎる」ということで、どこの会社も売りに出そうとはしませんでした。
それから約30年後の1932年、チャールズ・ダロウという男性が友人と一緒に、マギーの作ったゲームをプレイしました。
ゲームを気に入った彼は、そのアイデアをパーカー・ブラザーズ社に持ち込みます。
こうして「モノポリー」という名前で発売され、高い人気を得るのです。
しかし、元のアイデアを生んだのがマギーであることは知られていません。
第4位 呉健雄(ご・けんゆう)「パリティの非保存」
第二次世界大戦中、中国系アメリカ人の物理学者であった呉健雄(1912-1997)は、原子爆弾の開発を目的とした極秘プロジェクト「マンハッタン計画」に参加していました。
そこで彼女は、ウラン燃料の濃縮手法を研究をし、戦争が終わってからも、コロンビア大学で、2人の男性の同僚と研究を続けました。
そして、「パリティ対称性の破れ」と呼ばれる物理現象を初めて実験的に実証したのです。
通常の物理現象は、空間反転(たとえば、鏡に映したとき)しても変わらないように見えます。
このように、空間反転した状態と元の状態で物理法則が変わらないことを「パリティ対称性がある、パリティが保存されている」と言います。
物体に働く力は、重力相互作用・電磁相互作用・強い相互作用・弱い相互作用の4つです。
彼女は、このうち弱い相互作用が働いた物理現象でのみ、パリティ対称性の破れが生じることを発見しました。
肉眼で見えるのは、重力相互作用・電磁相互作用のみなので、長い間、すべての物理法則でパリティ対称性が保存されていると考えられていたのです。
これは物理学の大きな功績でしたが、ノーベル物理学賞は、同僚の男性2人に送られています。
第3位 リーゼ・マイトナー「核分裂」
リーゼ・マイトナー(1878-1968)は、オーストリアの物理学者で、放射線・核物理学の研究を行いました。
彼女は化学者のオットー・ハーン(1879-1968)とタッグを組み、30年以上にわたって共同研究を続けています。
2人の手法は、まずハーンが実験を行い、彼女がその理論を証明するというものでした。
その中で、2人は「核分裂反応」を発見。20世紀半ばに原子爆弾を作るための基礎となりました。
ところが、彼女が生涯をかけて研究した成果は、ハーンだけが認められることになったのです。
ハーンは、原子核分裂を発見した功績で、1944年にノーベル化学賞を受賞しています。
彼女が認められなかった理由は2つあります。
1つは、彼女がユダヤ人であったこと(当時、ドイツではヒトラーが権力を握っていた時代)。
もう1つは、当時の核物理学の分野では、女性の存在が一般的でなかったことです。
そのため、ハーンは2人の研究成果を発表する際、必ず彼女の名前を論文から削除していました。
第2位 アリス・ボール「ハンセン病の治療法」
アリス・オーガスタ・ボール(1892-1916)は、アフリカ系アメリカ人の化学者です。
彼女は、ハワイ大学で修士号を取得した初の女性(かつ、初のアフリカ系アメリカ人)でした。
さらに、同大学における初の女性の化学教授ともなった聡明な研究者です。
その当時、ハワイではハンセン病が猛威を振るっており、患者の治療には、ガマハダダイフウシという木の種子から取れるオイルが有効とされていました。
これを「大風子油(だいふうしゆ)」と呼びます。
ところが、医師や研究者たちは、大風子油の効果的な注射法が分からず、薬効が限定的にしか発揮されていませんでした。
そこで医師会は、ボールを呼び出し、「注射用のオイルを作ってほしい」と依頼します。
彼女はその要求に見事に応え、1年以内に注射用ハーブエキス(ヒドノカルピン酸エチル)を完成させ、医学史に大きな飛躍をもたらしたのです。
彼女の薬はその後20年にわたって使われ続けました。
しかし不運にも、ボールは実験室での事故により、24歳の若さでこの世を去ってしまいます。
そのため、同僚の男性研究者が注射用ハーブエキスの報告書を発表する際に、ボールの名前を削除したため、功績が世に知られなかったのです。
第1位 エイダ・ハリス「ヘアアイロン」
これまでは研究者や発明家、エンジニアの話でしたが、エイダ・ハリスは、学校教師をしていた普通のアフリカ系アメリカ人女性でした。
彼女は、1880年代後半に、ストーブで簡単に加熱できるトング式縮毛矯正器、いわゆるヘアアイロンを発明しました。
熱を利用して髪の形や質感を変えるというアイデアはそれ以前にも存在します。
1870年代に、フランス人のマルセル・フランソワ・グラトーが考案したのは、アイロンを使って髪をカールさせるものでした。
これは「マルセル・ウェーブ」と呼ばれて、人気を博します。
それとは裏腹に、エイダは「アフリカ系アメリカ人の縮毛をなんとかまっすぐに出来ないか」と考えていました。
そこで発明したのが、マルセルとは逆の、巻き毛をストレートにする縮毛矯正器でした。
彼女の特許申請書には「私の発明は、巻き毛をまっすぐにすることを目的とした縮毛矯正器に関するもので、特に有色人種の人々が髪をまっすぐにするのに役立つものである」と書かれています。
ところが、この縮毛矯正器を見た人々は「10年前にカールアイロンを作ったマルセルの発明品だ」と信じてしまったため、エイダの功績が世に知られることはありませんでした。
現代の私たちは、カールアイロンとストレートアイロンが、それぞれ異なるニーズを満たす全く別の発明品であることを認識しています。
ストレートアイロンは、エイダ・ハリスという一般女性が作った発明品なのです。