脳とAIの内部を移動する不思議な「進行波」
脳を結び付ける進行波
私たちの脳は膨大な数のニューロン(神経細胞)が結びついた「究極のネットワーク」です。
そして、このネットワークには「ただ点と点が結ばれているだけではない、ダイナミックな活動パターン」が生まれます。
その1つが、進行波(traveling waves)と呼ばれる現象です。
たとえば脳の視覚領域は、私たちが目から取り込んだ映像を分析する“最前線”として知られています。
そこでは、色や明るさといった基本的な要素だけでなく、境界線や動き、さらには奥行きまでもが解析されます。
その処理はニューロン1つひとつの発火にとどまらず、皮質表面を移動する“波”のような広がりを伴うことがあるのです。
ふつう「波」というと、水面に同じ場所でゆらゆら打ち寄せるイメージかもしれませんが、この進行波は“場所そのもの”が移動していきます。
言い換えれば、脳内のある地点で起きた興奮が隣接領域へどんどん波及し、「脳回路をサーフィンする波」のように伝わっていくのです。
(※通常の波は同じ場所で揺れ続けますが、進行波は波が存在する場所が脳回路を伝って移動していきます)
このような移動する波「進行波」はかつては「大規模な神経活動の副産物では?」と考えられていた時期もありました。
しかし近年の研究で、進行波は情報のやり取りやニューロン同士の同期に重要な役割を果たしている可能性が高いと分かってきました。
また意識レベルとの関係も示されており、覚醒時には、進行波が広範囲で発生し、情報伝達が効率的に行われているものの、睡眠時や麻酔状態では、進行波が局所的になり、情報が遮断されることが示されています。
神経科学者たちは、脳が必要なタイミングで必要な場所へ情報を届けるために、この進行波を活用しているのではないかと考えています。
進行波が発生することで、興奮のリズムが「ターゲット領域」まで効率よく伝わり、必要な回路を同期させるのではないか、という仮説です。
注意を強く向けている対象があるときには、波がうねりを増したり形を変えたりして、ちょうど“電車のダイヤを増発”しているかのように、その情報を効率よく運ぶのです。
さらには「進行波がこそ意識の基盤なのでは?」という大胆な理論を唱える研究者までいます。
ニューロン同士のシグナル伝達はごく微小なプロセスに見えますが、進行波の視点に立つと「かなり大きなスケールで、しかもある方向性をもって情報が流れている」ことを捉えられます。
これこそが、脳が複雑な認知や感覚統合を可能にしている秘密の一端でもあるのでしょう。
こうした進行波の発見は、私たちが「脳は単に多数のニューロンが電気信号を送り合っているだけでない」ことを強く示唆しています。
「考えが頭の中を巡る」という表現も、進行波の動きをみればあながち嘘とは言えないのかもしれません。
興味深いことに、近年は人工ニューラルネットワーク(AIの内部構造)でも、脳と似た進行波の動きが確認できるようになってきました。
もちろん、人間の耳や目で直接見たり聞いたりできるものではありませんが、数式やアルゴリズムの世界で「波」として捉えられるパターンが出現しているのです。
近年の研究では、この進行波が「単に波が動いている」だけでなく、AIが物事を“どのように見て”、“どこを切り分けるか”を決定する鍵になっていることが示唆されています。
そこで今回、ウェスタン大学の研究者たちは、AI内部の進行波の挙動を知るための数学的なツールを開発し、AIの思考や注意点の流れ、さらに意思決定のメカニズムを調べることにしました。
もしAI内部で進行波を上手くとらえることができれば、ブラックボックスと言われていたAIの思考過程を明らかにすることができるかもしれません。
人工ニューラルネットの進行波
調査にあたってはまず、脳の進行波を人工ニューラルネットで再現する仕組みが作られました。
ここで重要となるのが、最近発表された「複素数を使ったリカレントニューラルネットワーク(cv-RNN)」による画像分割の研究です。
一般的な人工知能のモデル(ニューラルネットワーク)は、入力から出力へ「一方向」に情報が流れるタイプが多くなっています。
しかし、今回使われたのは、脳のように“ぐるぐる”情報が循環するリカレント(再帰的)構造です。
このようなニューラルネットは従来のものより人間の脳に近いと考えられています。
そこにさらに“複素数”という数学的道具を持ち込み、波の振幅(Amplitude)と位相(Phase)を一つのノードで同時に扱えるようにしました。
振幅(Amplitude): 波の高さを決める要素。大きいほど強い波になります。
位相(Phase): 波が一周期の中でどの位置にあるかを表す要素。
こうすることで、脳内の進行波とそっくりな“移動する波”が自然に生まれるネットワークを作りだすことができるのです。
しかも、複素数を使うと数式解析がしやすくなり、ネットワークの動きをくっきりと解明できるという利点があります。
(※脳の進行波の振幅と位相にかかわる表現を、AI内部で行われる複素数演算で示すことができます)
新たな研究では、研究者たちはこの最新の人工ニューラルネットを用いて、背景と物体を識別できる仕組みを作り上げました。
たとえば、
白地に浮かぶ黒い三角形
雪景色に溶け込みそうなシロクマ
といった場面でも、AIが正確に「ここが物体」「ここが背景」と切り分けられるようになるのです。
次に研究者たちは、AI内部で何が起きているかを分析しました。
すると、ネットワーク内部に「三角形用の波」や「背景用の波」が自然に生成され、最終的にはその波の違いによってピクセルが分類されていることがわかりました。
(※ピクセルとは、デジタル画像を構成する最小単位の点です。一つ一つのピクセルが色や明るさの情報を持ち、それが集まって写真や映像を作り出します)
より具体的には
①まずは大きな波が全体をスキャンして背景と物体をざっくり分離
②次に物体の内部で“細かい波”が形を変え、複数の物体があれば別々の波が生まれる
という2段階の流れが観測されました。
この振る舞いは、神経科学者が脳の視覚野で見る「局所的な同期」や「大域的な波」と酷似しており、まるで“脳をまねた”かのような動きを示しています。
さらに画期的なのは、なぜ「この波」が「この物体」を際立たせるのかを数学的に説明した点にあります。
従来のAIでは、ネットワークの内部構造が複雑すぎて、どうしてその判断に至るのかを追いきれない“ブラックボックス問題”がありました。
しかし今回、固有値や固有ベクトルなどの数学的ツールを使って波の伝播を解析することで、「波がどのようにオブジェクトを分離するか」を明確に読み解ける可能性を示したのです。
言い換えれば、“AIの頭の中”を可視化する大きな手がかりを手に入れたわけです。
「AIの挙動を厳密解で説明する」――これはブラックボックス問題への大きな突破口になり得ます。
さらに興味深いのは、一度パラメータが整えば、シンプルな図形でも、自然風景でも、同じ波の仕組みで切り分けられること。
従来のディープラーニングモデルは「特定のデータセットに最適化される」という傾向が強いのですが、この研究は「波が持つ汎用的な分割能力」を示唆しています。
つまり、水たまりに石を投げ込んだときにできる波紋が、大きな波でも小さな波でも広がるように、ひとつの基本ルールがいろいろな画像に適応できるのです。
本物の脳の進行波のように、人工ニューラルネットワークの進行波もまた情報処理を行う上での恩恵を与えていたわけです。
脳を模したAIは昔から「ニューラルネットワーク」と呼ばれてきましたが、実際の脳機能をどこまで再現できているかは未知数でした。
しかし今回のように「進行波」という観点を付け加えることで、今までのAIでは実装が不十分だった“波の計算”が、少しずつ再現され始めたとも言えます。
進行波を取り入れたAIは、脳の強みである「大規模情報処理」「汎用学習」「動的な意識状態のような挙動」を一歩ずつ再現していくかもしれません。
もっと高速に、もっと多彩な波を使いこなせるようになれば、未来のコンピュータは私たちが想像する以上に「脳っぽい」働きを示す可能性があるでしょう。