生贄は「定期的」に行われていた? 遺骨は今後、1000体を超える可能性も
パンパ・ラ・クルスでは、数年前から発掘作業が続いており、これまでに302人の子供の遺骨が発見されています。
さらに、近くにあるラス・リャマス(Las Llamas)遺跡からは137人の子供の遺骨が見つかっていました。
同地は、生贄に供された子供の遺骨が出土した世界最大の場所であり、プリエト氏は、今後さらに多くの遺骨が発見されると予想され、その数は合計で1000体を超えるだろうと述べています。
新たに発見された76体については年代測定が必要ですが、過去に見つかっている遺骨の年代はどれも、西暦1100年〜1200年の間におさまっています。
この時期、同地では「チャンチャン(Chan Chan、”輝ける太陽”の意)」という都市に拠点を置くチムー(Chimú)文化が栄えていました。
チムー族は、西暦900年から1470年頃までペルー北西岸の砂漠地帯に住んでいたことがわかっています。
彼らは高度な農業技術を発達させており、巨大な灌漑システムを構築し、山から畑、居住区、寺院にいたる大規模な水力運河のネットワークを作っていました。
現在は水不足のために人の住めない地域となっていますが、チムー文化の中心地であるチャンチャンは、およそ36平方キロメートルを超える広大な都市で、ピーク時の人口は数千人規模に達したと見られます。
その後、チムー族は、1465年から70年にかけて、インカ帝国の支配者に征服され、農業や灌漑を含む技術の多くが、インカのシステムに吸収されました。
一方で、チムー族は、これまでの研究により、定期的に神への供え物として生贄を捧げる「人身御供(ひとみごくう)」を行っていたことが判明しています。
年代測定によると、パンパ・ラ・クルス地域では、1050年〜1500年の間に6度の生贄イベントが行われていたことが確認されています。
まだ未確認のケースも含めると、チムー族は定期的に生贄の儀式をしていたようです。
研究に参加した米パデュー大学フォートウェイン(Purdue University Fort Wayne)の人類学者、リチャード・サッター(Richard Sutter)氏は、チムー文化の出現以前に、フアンチャコに住んでいた人々が人身御供を行っていたことから、「チムー族はこの地域で長く続いていた慣習を引き継いだのかもしれない」と述べています。
アンデス地域では他にも子供の生贄の事例がありますが、これほど大規模なものは類例がありません。
また、当時のペルーでは、文字による記録の慣習がなかったため、今となっては、子供を生贄にした正確な理由を知ることもできません。
しかし、ベルギー・ブリュッセル自由大学(ULB)のピーター・エークハウト(Peter Eeckhout)氏は「チムー族の農業を混乱させるような気候や環境の変化が、生贄の原因になった可能性が高い」と指摘します。
たとえば、エル・ニーニョ現象にともなうペルー沖の海水温の上昇が、異常な豪雨と洪水を引き起こし、チムー族の生活に大ダメージを与えた可能性が考えられます。
(エル・ニーニョ現象:太平洋赤道域の日付変更線付近から南米沿岸にかけて海面水温が平年より高くなり、その状態が1年程度続く現象)
危機的状況にあったチムーの全住民を救うため、大規模な子供の生贄を行ったのかもしれません。
研究チームは現在、発掘された遺骨の正確な年代測定のため、ペルー文化省に、いくつかのサンプルを海外に輸送する許可を申請中とのことです。