「CDSの知名度が低い」ことが問題
CDSがADHDと間違われやすい原因の1つは、CDSを定める公的な基準がまだ存在していないため、診断が困難な点があげられます。
一部の心理学者は、質問票と行動観察を組み合わせて、「頻繁な空想、頭の中がボンヤリする、処理速度が遅い」などの程度を評価することでCDSの診断を行っています。
しかしCDSと判断できても、症状をサポートして改善するための治療法も確立されていません。
認知行動療法によって最良の対処法を身につけたり、ADHDに使用されるのと同じ治療薬が有効との意見もありますが、まだエビデンスは得られていないといいます。

そして最大の問題は「CDSの知名度が非常に低いこと」と専門家は指摘します。
CDSはADHDに比べると社会的な認知度が低く、今回初めて聞いたという方も多いでしょう。
そのせいでCDSは他の症状と混同されて正しい治療がされなかったり、悩みが理解されずに「単にだらしないだけ」とか「努力が足りないからだ」と批判されやすいのです。
そこでCDSの病理を根本から理解し、原因の究明や治療法の開発を進めることが、症状に苦しんでいる人を支援する上で急務だと考えられています。
おそらく、CDSが一般に認知されていないために、隠れCDSの人が世界中にたくさんいるはずです。
専門家らは「CDSはもっと注目されるべき疾患であり、ADHDとは分けて考えるべきでしょう」と話しています。
何をするにも集中していないといけないということでもないので、集中しないままぼんやりできるようにしてしまうのも手です。
大きな成果は出せないでしょうが、成果出すだけが人生じゃないですからね。
ぼんやり妄想した内容で本でも書いてみるとか。
どんな能力も使いようですよ、使い方を探して上手に付き合いましょう。
こういうのはキリが無いんですよ実は。
本当に「疾患単位」とすべきなのかどうか。この概念もおそらく「あるかないか」ではなく、その程度に応じてグラデーション状になっているでしょう。とすると「どこから、何故」という診断基準が必要になりますが、じゃあ、「診断」がついたら何をどうすれば良いのか、分からないでしょう。
背が低い高いも、極端な低身長や高身長は疾患として扱われますが、それは「上位(下位)◯%に入っている」といった人為的な区切りによって為されます。その「基準」近辺の人の中は、本質的な差はないに関わらず、です。
「学力が低い」「容姿が醜い」「内気」「足が遅い」など、多くの「得意不得意」に属しているものも、「疾患」という枠組みで捉えられます。そしてそれらの多くは「遺伝子的に」ベースラインが決まります。
「新しい疾患概念を発見した」というのは医者や研究者にとって非常に魅力的なことでしょう。しかし本当に、「それ」に「疾患」の枠組みを与えても良いものかどうか、根本的な部分で熟慮する必要があります。
コミック「メダリスト」の結束いのりのように環境さえ適合すれば驚異的な集中力を見せるのがADHDの特徴でもあるので比較で言えば定型であってもその傾向はあるということです。
俺がまさにこのCDSかもしれん
この記事を読む間にも気が散って、エアコンの温度を無意味に調整したり、小腹が減って冷蔵庫に行ったり、トイレに行ったり、いざ文章を読み始めても集中力が湧かずボーッと虚空を見つめたりして、
結局この記事のたった2ページを読み終えるのに20分も掛かってしまった
投薬でも認知行動療法でも何でもいいけれど、早く治療法を見付けて欲しい…
要するに生まれつき、とろくさいってことか
①僕はADHDではありません。
②ADHDは診断が難しいとされることがあります。
③注意欠損の原因は、注意力の欠如だけでもなく、注意力散漫であることもある
よって、いろんなことに興味関心を持つこと、持ちたいと思うことになります
やればできるんだよ感は、本来の能力を示します。
ADHDに憧れます
診断が難しいとされると、もしかしたらADHDかも?と期待してしまうことも
でも、そんな期待はしてないと、気持ちを隠したくなります。
自分にADHDの素養があると、自分が思っていることを隠したいのです。
ADHDの診断は難しいと言われても、そうなんだねとするしかなくなります。
ADHDかどうか、診断されるかどうかとは関係なく
興味関心の広さをめざそうとすることになります。
ADHDであるかもしれないことを変に隠そうとせず、真っ向から自分の思う自分になろうとすればよくて
その結果、ADHDでないにしても、興味関心が薄い奴になりたくないだけです
複雑ですが、興味関心は持ってると言い張りたいのです。
集中する能力そのものも、無いとしたくないんです。