自己肯定感の低い人に「前向きな言葉」が逆効果になるワケ
実験の結果では、自己肯定感の高い人では「私は愛されている」というフレーズを唱えることでわずかに気分が改善しました。
しかし、自己肯定感の低い人では逆に気分が悪化していました。
研究者たちはその理由として、「自己肯定感の低い人はこの言葉を自分の現実と比較してしまい、『自分はそんなに愛されていない』と感じてしまうからだ」と分析しています。
さらに、否定的な考えが頭に浮かぶことで、「自分はポジティブなことすら信じられないダメな人間なのでは」という悪循環に陥ることが示唆されました。
この現象は、心理学で 想起の容易さ効果(ease of retrieval effect) と呼ばれる考え方に関連しています。これはある考えや記憶について考えようとしてもイメージが上手く作れないとき、人は「自分にその特性がないのだ」と感じやすくなるというものです。
これにより自分が「思い通りに前向きな考えになれない」こと自体が、さらなる自信喪失を引き起こしてしまうのです。
ウッド博士の研究は「ポジティブな自己暗示が必ずしも万人に良いとは限らない」ことを明確に示しています。

そのため特に自己肯定感の低い人には、無理に前向きな言葉を繰り返すよりも、ありのままの自分を受け入れる「自己受容(self-acceptance)」や、自分を責めずに思いやりを持つ「自己コンパッション(self-compassion)」の方が有効と考えられるのです。
最近、SNSやネット掲示板などでは「生きてるだけで偉い」といった言葉が多くの共感を集めていますが、この現象もこれら研究報告と深い関連があります。
自己肯定感が低い人が「私は素晴らしい人間だ」「とてもよく頑張っている」などの強い肯定の言葉を繰り返すと、自分の現実と合わずに苦しさが増すだけになってしまいます。これは「自己不一致フィードバック(self-discrepant feedback)」とも呼ばれるものです。
一方で「生きてるだけで偉い」というメッセージは、自分に対して何も高い目標や成果を求めません。
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「仕事ができなくてもいい」
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「誰かを助けられなくてもいい」
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「今日何もできなくても、生きているだけで十分」
という存在そのものを認める言葉であるため、自己肯定感が低い人にも受け入れやすく、むしろ安心感を与えることができます。
これがいわゆる「自己受容(self-acceptance)」と呼ばれる考えに通じるもので、ありのままの自分をそのまま認めることで心の安定を保つ方法なのです。
「生きてるだけで偉い」という言葉の広まりは、過度なポジティブ思考が合わない人にとっての、優しい“現代版セルフケア”と言えるのかもしれません。
とても共感できる話だが、ネットで濫用される「生きているだけで偉い」はそういう楽な言葉で逃避している集団(自分も含む)が都合の良い言葉で甘えているだけに見えて、むしろ嫌な気持ちになる。
有名な漫画キャラクターの「俺はこれまで頑張ってきた!俺はできる奴だ!」という自身を鼓舞する台詞があるが、この台詞が人気を得たのは(自分にはとても真似できないが)楽な言葉に逃げず、辛い現実に立ち向かおうとする姿勢が支持を集めたのだと思う。
ゴミみたいな内容。価値無し。時間の無駄。何の解決にもなってない。的外れな回答
何を言っても落ち込む人は落ち込みますから、そこは何も言わずにただそばにいてあげればよろしい。
ターミネーター2でもサラ・コナーが言ってたでしょう?
ジョンの親になろうとしてくれた男は山ほどいたけど、その誰にもジョンは心を開かなかった。そのジョンが今心を開いているのはかつて彼を殺すために私やカイルを付け狙った機械と同じ存在。彼は何も言わず何も求めずただジョンのそばにいて彼の脅威をすべて排除する。ジョンが求めていたのは理解でも同情でもなくどんなときでも自分の側にいてくれる存在だったのだ。
これはジョン・コナーに限らないですからね。
サラ・コナー自身もディレクターズカット版では妄想の中のカイルに寄り添ってもらっていたわけですから。
どんなときでもそばにいるっていうのは実際はかなり難しいので。
早く安楽死が認められる世の中になってほしい。
去り際も死に際も
自分で決められるうちに
自分で選択てきるうちに
私も恐らく自己肯定感が低い場合が多い方だと思うのですが、ここで書かれる過度なポジティブ思考は合わなかったです。しかし、「何かができなくてもいい」と言うのも、自分にできないことがある事実が嫌で合わず。
自画自賛している時のような、視野の狭い状態でいる時は自分を褒めち切れたり、褒め言葉や励ましを受け入れられるのですが。
他人から褒め言葉や励ましの言葉をかけられた時は、できない理由にできる記憶が思い浮かんで、救いようがないですが「相手はお世辞を言っているのだろう」「無理をして私のような人間に言葉をかけているのではないか」と考えてしまいます。視野の狭い状態の時は、ただ嬉しいので喜べますが、そうでない時は複雑で微妙な気持ちが顔に出てしまって、「ありがとうと感謝して受け取らねばならない」「せっかく声をかけてくれているのにこんな対応にしかならない」と自分が如何に社会の底辺みたいな対応をしているかというところを責めてしまいます。
ここでは自分にかける言葉として書かれていますが、他人から言われた時は特にそう思うことが多いので、白い嘘で頑張って笑って誤魔化します。
「生きてるだけで偉い」
自分では抱えきれないほどの
悩みや苦しみや悲しみから
自ら 死 という選択をした人、
そして、その人に親しい方々にとっては
侮辱の台詞でしかないですけどね。
偉いとか、偉くないとか
そういう次元の問題なのですかね?
とても疑問に感じます
絶対に人生には谷がありどん底を味わう時があります。その時に頼れるのが何かなのか、おそらく頼れる人がいなくて一人で悩んでいる人がほとんどかと思います。谷にいる時にどのように這い上がっていくのか、孤独感をどのように克服していくのか、ウェルビーイングの世界では達成できないのかもしれません。